6月2日「今、片づけ・整理(パソコンのフォルダ内)をしていて気づいたこと」

「今、片づけ・整理(パソコンのフォルダ内)をしていて気づいたこと」

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6月2日水曜日。時刻は午後1時。

今、パソコンのフォルダ内整理をしている。

こういう片付け・整理は今までこうした普通の日にはやってこなかったのだけれど、それはまず自分の日常はトレーニングであったり部活であったり最近で言えば「自分保守点検」であったり、休息であったりを優先してきたからだ。

しかし、今現在、そうしたやるべきことも日々ちょびちょびとこなしつつも、ある程度時間に余裕を持ててきて、その時間を利用して今は「片付け・整理」を主にやろうかなあと思って、今している。

それで、パソコンのフォルダ内に溜まった自分の足跡というか、軌跡みたいなものを整理しているのだけれど、結局僕は20代前半から、もしくは10代後半も含めて、「何かしらのアウトプット」を形変われど何らかの形で行っていたことが分かった。

そのアウトプットをやっては、飽きるというか、結局誰の目にも見てもらえることが出来ず、また誰かの前で披露していなかったり、それはとある角度から見れば「黒歴史」かもしれないが、しかし確実に、自分が社会や他人に対して認めて欲しいという気持ちが確実に感じられて、「もがいていたんだな」というのを感じさせられる。

例えば、みうらじゅんが昔していたように、いいフレーズが浮かんだらそれを録画してみたいなことを、僕もまたやっていて、その音源がパソコンのフォルダ内に大量に溜まっていたりしていた。(それは以前から知っていて、そのままにしておいたが、今回音声メディアは扱いづらいと思い、思い立ってすべてデリートしてみたり。)

また、文章で何かを表現しようとして、そういうのが大量にフォルダ内にあったり。

そういうのを、今は残すものは残し、消してしまっていいと判断したものは思い切ってデリートしている。

こうして振り返ると、やはり表現って難しいなと思う。

その時、それが自分にとって一生懸命で、それがすべてだったけど、いざ時を経てそれを冷静に見てみると、全然伝わる力が下手だったり、伝えようとする気持ちだけが前のめりになっていて、本質を外れていたり。

また、結局それは、これからもなのかもしれない。

今の部活もまた、やり始めた当初や半年ぐらい前はかなりしょぼいというか、内容が粗いと今振り返ればそう思えるけれど、やっていた当初は必死だったのだから。

今の部活もまた、誰か他人から見ればまだ全然粗いのかもしれない。(そもそも今は、作品が投稿されてないのだけれど。)

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伝えることってやっぱり、難しいなと、自分の過去の残骸を見て改めて思う。

まずは、「フォーマット」が成立することが、やはり大切だと、今回の整理で思った。

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6月2日「アイドル論。」

「男性ファンが女性アイドルを見て可愛い・惹かれると思うことについて。もしくは女性ファンが男性アイドルを見てかっこいい、惹かれると思うことについて」

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6月2日水曜日。時刻は午前9時。

これについては、たぶん数か月前ぐらいとか、もしくは度々このブログ内で述べていたと思うけれど、これまた改めて自分思考整理のために書いておきたいと思う。

ずっと、というか、僕が思春期頃からかわいい女の子に対しての想いから、そこからの変化というか、気づきというか、その辺りを書いていく。

すごく、かわいいじゃん、かわいい子は。←ww

可愛いから、すごい。

可愛いから、何か自分にはないとてもすごい、何かを持っている。

かわいい女の子に対して、その想いは基本的に変わってないし、たぶん一生持ち続ける。

しかし、20代後半、もしくは30代になって気づいたことを書いていく。

最初の違和感というか、あれって気づき始めたのは、そんな可愛いアイドルが、「そうじゃないよね」っていう行動をし始めたあたり。

それは何だろう・・・、分かりやすく言うとスキャンダルとか。

別に僕はこれまでそれほど特定の誰かのアイドルに熱中したことはないのだけれど、その人にファンがいれば、そのファンを裏切るようなことを、そんなニュースを僕が年を重ねる過程で幾度も目にしていった点になる。

そういう過程で気づいたのは、可愛いアイドルというのはただ、可愛い、つまり容姿に恵まれているだけで、普通に、「中身は空っぽ」という、時に普通よりだいぶ常識がなかったり、結局何だろう、外見が特別なだけで、頭の中身はアホであったり、特別ではない、ということだった。

これ、意外と、というか、かなり気づきくい所だと思う。

どうしても、可愛いアイドル、かっこいいアイドルって「神聖視」してしまうところがあると思う。

あんなに可愛い・かっこいいのだから、自分たちより想いや思考も発達していて、最低でも「まとも」であってはくれるよね、的な。

そんな僕たちの想いとは裏腹に、まあ、まともであることはまあまあの確立であるのだけれど、結局その後の彼ら彼女らの生きざまを見ても特段昔感じたタレント性はあまり感じず、普通というか、しょうもないというか、結局外見が優れていただけで、やはり普通というか、平凡なんだなって、気づかされることが多かった。

それで、ここからが大事なのだけれど。

それじゃあ、あの頃僕たちは、何を彼らに見ていたのかって。

ここが、今の部活にも絡んでくる話。

つまり、美しさは彼らの中にあったのではなくて、彼らを見ている「僕たちの頭の中」にあったのではないかって。

これをもとにして、僕が今やっている部活のその後やる予定のイメージ1,イメージ2の活動にも関わってくる。

どっちを大切にするかというか、振り返ってみてみると、どっちなのかというか。

つまり、美しかったのは、彼らではなく、彼らを美しいと思った、僕たちの頭の中にあった。

この辺は、以前からこのブログで何度も述べている「すでに自分にあるものに気づく」という、最近の僕の理念というか、行動習慣のもとになる考えにも通じている。

アイドルに限らず、何かを美しいと思う時、その対象に美しさがあるのではなく、それを美しいと思う自分たちの「感性の中」にある。

これをもっと、大切にした方がいいのではという想いが、最近の僕の思考の流れ。

つまり、自分の(感性)の美しさに気づく、自分の感性を見つめる、自分の美しさを見つめる、というのが、重要であると。

結局、可愛い・かっこいいアイドルを追っかけても、彼ら彼女らの思考は平凡で、むしろ、彼ら彼女らを美しいと思える自分の思考回路を、もっと見つめた方がいいのではないかと。

彼ら彼女らに自分たちの思考を求めるのは意味がなく、むしろ自分の「美的感覚・感性」に触れていく。

つまりこの話はニワトリが先か卵が先かの話に似ていて・・・。

可愛い・かっこいいいアイドルたちが先にあるのではなく、彼ら彼女らを可愛い・かっこいいと気づく自分内部の美的センサーを、もっと敬う・尊敬し、そちらに心委ねた方が、いいのではないか、という話。

つまり、可愛いアイドルかっこいいアイドルは可愛くなく、かっこよなくなくて、こっちの美的判定機が優れているから、彼らの外見的美しさに反応しただけ、的な。

既に自分にあるものに気づく。

自分の脳内、自分の思考、自分の感性を、もっと敬い、心委ねよ、という話。(さっき言ったぞ)

部活のイメージその1,その2では、それに基づいて、イメージの開放みたいなものをしようと思っている。(何年後?←ww)

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6月2日「虚無とは何か。」

「虚無とは何か」

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6月2日水曜日。時刻は午前8時。

ここ最近、もしくは以前から、部活の本質は虚無であると述べているけれど、その虚無とは何か、それは以前すでに述べたことかもしれないけれど、確認の意味も込めて、というか、以前書いたこと忘れてるから違うこと言うかもしれないけれど、書いていく。

虚無とは何か。

それは僕たちの本質だと僕は思うし、人の一生とか、命とかの本質だと思う。

つまり、何も意味はない、もしくはすべてに意味があるから、すべては無である、という。

だから、僕的に、虚無というのは否定でもなく肯定でもなく、むしろどちらにでもなる、どちらも有する、プラスにもマイナスにもなりうるもの、というような感じ。

ラソンで例えると、スタート地点でもあり、ゴール地点でもあり。

今の地点から走って、スタートしてもいいけど、結局ここに戻ってくるよね、的な。

例えば、山登りとか、平地からスタートして、山登って、結局平地に帰ってくるじゃん。

山登りに興味がない人は、そんなん意味なくね?って思ったり。

つまり、人が何かをDOする時、それはその人にとってはやりたいことであったり意味があることかもしれないけれど、他人から見たら、もしくはとても俯瞰的立ち位置、つまり神目線から見たら、別に意味がない、もしくは興味がないことだよね、って。

つまり、人がその命で何をやるかとか、生きることって、スタートして、ゴールして、そしてスタートしての、ずっと繰り返しで、他人から、また神目線から見れば、別にどうでもいいことなのだよ。

何をやろうが、どう生きようが、すべては自分の納得の範囲であり、しかしそれも、他人から見ればどうでもいい。

すべては虚無から始まって、そこから何か、生きるために意味や意義を見出そうとする。

別にそれは、否定しないというか、勝手にやって、的な。(人の邪魔をしない限り)

何もないところから、すべては始まる。

だから、虚無というのは、数字的に言うと「0」ではなく、0近辺の、時に4になったり、時に2になったり、そして時にー10になったり、時にー5億になったり、そういう0を基準にして揺れ動くもの、という感じ。

つまり、人の幸せに似ている。

今日は幸せ、今日は不幸せ。

美味しいものを食べたら幸せ。

親しい人が亡くなったら不幸せ。

しかしそれも、寝ている時には実質0というか、その想いを忘れてしまって、そしてまた明日が始まり、リセットされて今日の自分を生きる。

明日に持ち越す人はほぼ出来なくて、起きた途端、自分を思い出す、引き出す。

RPGの勇者みたいにレベルを上げ続けることは出来なくて、日々僕たちのレベルはリセットされていく。

だから、あんまり、差はない。

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何故、この部活の本質は虚無なのか。

何故、この部活は人の本質に触れるのか。

それは、この部活の特徴として、伝える人を絞る、というのがある。

ここが、この部活のポイントであり、ここ故にこの部活は人の本質に触れる。

自分を語るとき、不特定多数の誰かに向けて語るのではなく、基本的に、一人に対して語る。

不特定多数に向けて語る自分というのは、結構「嘘」というか、それはおそらく、語る自分自身でも気づいている。

人の本質が虚無である限り、人一人というのはとてもしょうもなく、とても中身がなく、自分にとって自分、いや自分にとっての自分すら、その存在はとても「透明なようなもの(≒虚無的)」なものであると気づく。

群れることで、集団の中にいることで、共通の話題に安心し、何とか自我を保っているが、そんな社会的共通認識を取り除いた時、人は裸になり、また虚無的になる。

自分ひとりというのは結局、空っぽであり、とても意味がないものと知る・認める。

そういう認識を持って初めて、この部活で生まれるものは生まれる。

つまり、すごく自分に正直に、自分という存在の虚無さを認め、そこから自分とは何かであったり、自分と社会との関係性、そして他者との関係性により気づく自分という存在を探っていく。

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書いてて途中で、よくわからなくなった。←ww

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まあ、そんな感じで、虚無は別に否定でもなく、人の本質であり、それが人を知り己を知る大一歩だよ、ということ。

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5月31日「待つ。」

昼間、暑かったけど、今、涼しい。

夏が、暑い季節が近づいてきて、嬉しいような、空しいような。

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まだ、コロナは続いている2021年、5月末日。

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5月31日月曜日。時刻は午後9時。

今日で5月も終了・・・。

ふう・・・・。

現状認識から。

まず部活なんだけど、基本今は待っていて、7~8月まで待つ感じ。

それまでに返答なかったら動く。

もしくは、さすがに焦って自分から声をかけるかもしれない。

しかし、何だろう・・・・、少し言い訳になるかもしれないけれど、この部活の本質は「虚無」であり、なのでその部活に対して僕は、それほど「熱」は持ってないというか、虚無だから熱を保てないものなのか。

だから、う~ん、自分から動いてもいいのだけれど、動かない、ある意味「停滞している感じ」もこの部活らしくて、まあ、なので今はほっといてもいいのでは?と思っている。

すでにこの部活に関して自分的には「本質」を掴んでおり、後は「流れ」が来たら割とやれると思っていて、またこれは「50年の長さ」でやろうとしているので、そこまで焦ってもしょうがないかなと。

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それで、部活に割く時間が今はまあ、どちらかというと少なくて、それ以外の時間の優先的には「自分保守点検」をやっていたのだけれど、その自分保守点検もこの2か月くらいでだいぶ落ち着いてきて、それほど学んだり覚えたりすることは少なくなって、なのでどちらかというと時間は空いてきた、という、まあ、良いといえばいい?流れがやってきた。

部活もする時間もなく、また自分保守点検をする時間もなく、割と「ぽっかりと空いた時間」が、どちらかと言えば、多いと言えば多い。(実際的には、日々部活もちょびちょびとやっていたり、またトレーニングも日々やっていたりと、時間的にはまあまあ余裕はないけれど、2か月ぐらい前に比べるとだいぶ余裕が生まれてきた。)

なのでその空いた時間を、何にしようかなと。

と言っても、たぶん「整理・片づけ」に当てるのだけれど。

おそらく、数か月後、7~8月以降、部活関連でそこそこ忙しくなるのでは?と思っているし、また忙しくならないとさすがにダメでは?と思っているので、それまで6月、7月前半などは、「自分微調整」というか、改めて自分を見つめ直し、そして「整理」することを意識しようかなと思ったり、思わなかったり。

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どちらにせよ、文章冒頭でも述べた通り、昼間は夏並み暑かったのが、夜になると涼しくなっている今の時期が自分の思考的にはいい方向というか、妙な精神安定をもたらしていて、これが今後どうなるのか、少し気になる。

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流れは、良くもなく、悪くもなく。

ただ・・・・、何かを僕は待っているし、また待つと同時に、何かを起こし、何かをもたらすことを、自分自身で何か、期待しているのかもしれない。(よく分からん)

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すごく、「待つ」というのが自分の中でのテーマ。

それは、良くも悪くもで。

分からないけれど、今は、待つ。

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そういえば、今、NHKBSで「プロジェクトX」が再放送していて、録画してみているけれど、とても良いと思う。

また、以前も述べたけれど今の車中漫画は「ワンピース」で、ウォーターセブン編以前のを色々と読み直しているが、バトルに関してはやっぱワンピースってあんまりだなと思うけれど、やっぱちゃんと物語としてとても成立していて、すごいなあと思う。

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5月30日「経済に関心を持つことで、生きることが少し楽しい。」

「デジタル化(DXという奴?)とか、有人→無人化とか、オートメーション化とか」

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5月30日日曜日。時刻は午後7時。

最近よく述べているけど、経済について興味を湧くことが多くなって、それで、世の中もまたそういう観点で見ることが多くなった。

それで思うのは、やはり今の世の中はまだまだ便利になっていく、どんどんオート化というか、デジタルを使った効率がどんどん加速していくなと改めて感じた。

すごく身近なことで言うと、例えばコンビニやスーパーなどではすでにだいぶそれが分かる。

以前であれば、レジの人がお会計をやっていたのを、バーコードを読み込んだ後は後はお会計はそっちでやってねだったり、またセルフレジであったり、またコンビニであればお会計はそっちでやってねであったり。

世の中のサービスがどんどん、そういった「円滑的な方向性」に行っているのを、実際に生活していても感じている。

そうなると、そうして便利になっていくとやはり「人件費」を浮かすことが出来て、人が働かなくても回っていける世界になっていくよなあと。

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以前、積み立てニーサを始めたとか、楽天カードにしたとか述べたけど、それ関連で楽天銀行に口座を開いたのだけれど、銀行も、これからどんどんネット銀行が大きくなっていくのではないか。

楽天銀行を開くことで、以前まで口座を持っていたUFJとかを解約したのだけれど、解約しに行ったら、銀行で窓口で対応しているのを見ると、無駄というか、如何にネット銀行の方が人件費を使わずに行える楽で人件費をかけないでも成立できる商売だなと思う。

また、土地代もかからないし。

(ただ、日本の場合お金をたくさん持っている人が多いのが高齢者世代なので、20~30年は変化が遅くあり続けるし、その辺り、世界から出遅れるよなと思う。何か、国の繁栄って難しいよね。)

これから、客側としてはそうした楽にサービスを受けられる世界にどんどんなってはいくのだけれど、そうした果てには何があるかであったり、またどちらかというとそういう変化の波に遅れがちな日本はどうなっていくのかなど、興味が割と尽きない。

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そう考えると、生きることも楽しいなと思える。

ここ数年、楽しみというか、何か興味を持てることがなく、唯一興味というか面白いなと言えるのは部活であったけれど、部活は「虚無」を扱うという、ちょっとした生きることに相反するものなので、部活が面白いと思ってもちょっと生きることを肯定出来なかったのだけれど、「経済」を通じた社会を見るという、新しい興味を持てて、最近の僕はちょっと嬉しい。

新たな社会に対するアプローチ方法を手に入れたというか、新たな社会との繋がりを経済から得られて、少し生きるのが楽しくなっているのは、事実である。

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