6月8日「夏が近づいてきて、コーラが飲みたい。」

「生きてます(生存報告)」

別に、2,3日この日記書いてないからと言って、わざわざそんなこと言う必要はないが。

しかし、やはり先週の土曜からちょっと頭の調子が悪くて、ブログ書ける感じではなかったので。

かと言って、めちゃ痛い痛いとかではなく、普通というか、普通じゃないけど、ブログに何か書く余裕はないけど、最低限日常をこなせはする、そんな、少しだけアンハッピーな、しかし、そんなことこの10年ぐらい続いていたような、いないような・・・。

特に問題はない。

ただ、今日もやはり、疲れた。

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明日は休みなので、早いとこ寝て。

寝たい。

・・・。

6月8日火曜日。時刻は午後9時。

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何か、夏が近づいてきて、「コーラ」が飲みたいなと思った。

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6月5日「人の本質(≒真実。リアル)について。エゴについて。空虚について。」

「人の本質(≒真実。リアル)について。エゴについて。空虚について。」

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6月5日土曜日。時刻は午後1時。

基本的に僕は、それに関して結構興味を持っていて、というかまあ、人の本質ってまあ、自分自身も含まれるのだから、興味を持つのは当然と言えば当然だけど、僕の場合一般的よりより興味を持っている、という感じ。

それで、人とは何か、人の本質とは何かって言うと、僕の見解だとそれは単純で、それは・・・・、人の本質とは「エゴ」だと思っている。

それは、虚無というのが人の本質のように、否定も肯定もどちらの意味も含む。

人らしさとはエゴらしさであり、結局のところみんな、自分こそすべてであり、自分こそ正義であり、自分の考えこそ「美しい」と思っている。

ここで気を付けなくてはいけないのは、それは自分内で留めておくことは勝手だけど、その価値観を人に押し付けるのは、また別の話だよね、ということ。

他人はまた、自分とは違うエゴを持っている。

なのに、自分が思うエゴを押し付けるのは、人の本質から外れるよ、的な。

人の本質とは、エゴらしいもの。

つまり、人とは自分勝手で、自分本位で、自分主体で、傲慢で、強欲で、そんな感じのものである、と。

その、エゴらしい人を一面から見て「美しい」と感じるのは自由だけれど、人の本質を「美しい」としたり「素晴らしい」とするのは完璧に間違っている、というかそれは一面からに過ぎないから、他人に押し付けるのはやめてね、的な。

だから僕は、どちらかというと、「きれいごと」を言っている人は好きになれない。

きれいごとを、自分内や、自分内のコミュニティーで留めておくことは全然構わないのだが、そのきれいごとを自分コミュニティー外にまで適用するのは、無理があるよね、的な。

人は基本的に、美しくないと僕は思う、前提的に。

美しくないけれど、美しい部分もあるよね、が正しいと思う。(汚くもあり、美しくもある)

結局僕たちは、自分しか信じることが出来ないし、自分を信じるために、他者にその自分を認めてもらおうと必死である。(自分を信じるためには社会に生きていく中では他者による自分理解が不可欠。)

美しさは基本的に、人にはない。

人らしさとは基本的に、エゴイスティックな虚無しかない。

そのエゴイスティックな虚無に、時折漏れ出る美しさはある。

だから僕はどちらかというと、「幸せ」はそれほどきれいではないと思っているし、「幸せ」を他人に押し付けるのには気持ち悪く感じる。

幸せも不幸せも含めて、美しいよね、なら、分かる。

・・・・・。

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これと関連付けて、最近このブログで度々語っている、アーティストに対する尊敬の薄れと会社的な企業に対する心寄せについて語っていく。

単純な話で、結局ひとりの人間として僕たちは単にエゴでしかないわけ。

それは一般人も、タレント溢れるアーティストも変わらない。

だから、最近の僕の感じ方として、アーティストって単純に自分のエゴを社会にぶちまけているだけで、それを支持する人にとってはそれは心の拠り所になるかもしれないけれど、興味ない人から見れば、もしくは普通にただの人としての観点から見れば、薄ら寒いことをしているだけに過ぎない。

ただ、私を見て、とのたまっているだけに過ぎない。

それはアーティストが悪いどうこうの話ではなく、一人の人間の限界である。

一人の人間が発せられるのは一つの人間性でしかなく、その一つの人間性とはしょうもない人の本質(エゴ的、虚無的)である、と。

それじゃあ、会社とは何なのか、の話になるが。

僕の最近の考えとして、会社とは何かというと、う~ん・・・、どこから説明しよう。

エゴ的な人が集まることで、よりエゴ的な塊になるかと言われるとそれとは全く違って。

会社、つまり一側面から見ればただお金を生み出す組織である会社とは、人を離れて、それは「全く人ではないもの」、つまりまあ、ある意味「ロボット」であり「無機質なもの」であるのが僕の見解である。

だから、アーティストに対して興味が薄れて、というのはつまり、人に対して興味が薄れて、人の本質を知り、人に心寄せても、しょうもないよね、と気づき、それで何に心寄せるかというと、ロボット、つまり「無機質なもの」、という、ある意味ではすごく、残酷というか、ある意味『社会を拒絶した』ような価値観に、最近の僕はなっている。(説明下手だな。)

変な例えをすれば、ちょっとした「セックスアンドロイド」であったり「ラブドール」を愛するような感じに近いのかもしれない。(話が飛躍し過ぎ。)

「無機質なもの」。

例えば「廃墟」とか、惹かれる人は惹かれると思う。

また、天空の城ラピュタの、あのロボットとか。

人の本質を知り、人の限界を知って、何に心寄せるかというと、空洞、空っぽなもの。

エヴァンゲリオンで言うと、綾波レイに心寄せるような・・・・。

どんどん話が迷走というか、伝えたいことがこの話題はたくさんあり過ぎてつまみ食いしている感じになっているが。

会社というのも結局、確かにそれはたくさんの人が集まり群がっているものだが、その実態はしかし、ただの「空の構造」に過ぎない。

みんなが何となくあの会社に支えられて、あの会社のサービスに支えられて生きているかもしれないが、それは日本の天皇制のように、あるようでなく、いるようでいない。

会社とは空っぽなもの、それはどことなく、人からエゴを取り去った、人から人の本質を取り去った、空虚なものがより空虚になったもの、という感じが僕はしている。

だから、僕というエゴを持ってして何に興味を持つか、何に心惹かれるか心寄せるかを考えた場合、ただのエゴの発散であるアーティストに心寄せていても、彼ら彼女らはただのエゴの塊に過ぎず、それよりも、エゴを取り去った、いやもっと言うとそれこそエゴ中のエゴの塊なのかもしれないけれど、しかし空っぽである会社的なものの方が、僕の「思考材料」としては、いい暇つぶしになるなと思った感じである。

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エゴな生き物である僕はより僕がエゴ的に生きるために、乗りやすいロボットに乗り換えただけ、と言った感じである。

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6月3日「もうコーヒー飲まないなんて言わないよ絶対。」

「普通」

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6月3日木曜日。時刻は午後9時。

普通。

かなり変わらない日常というか、最近よく部活に関して述べている通り、この6月は「我慢の6月」であり「待ちの6月」。

急いでも、しゃあない。←ww

部活に関しては待ちなので、それ以外の時間を、それ以外のことをして過ごしている感じ。

まあ、果報は寝て待て。

ちょっとした、大学受験というか、大学受験もまた、私立文系だとしても、英語、国語、社会と「3教科」勉強しないといけない。

国立受けるなら、7教科ぐらい?(僕は私立文系1本だったので、センターも受けてないのでその辺り知らない)

部活という1教科はとりあえず置いておいて、それ以外の教科を、例えばトレーニングであったり、自分保守点検であったり、休息や片付け・整理であったり、それらも僕の日常で今後必要だから、部活が暇な今は、それ以外のことに時間を割く寛治である。

ふむ・・・・。

なので、まあ、普通。

そういえば、それで今は6月という時期で、かなり一日の日照時間が長いのがすごく感じられる。

そういえば、やはり4月・5月は「気圧」がだいぶやばかったらしい。

僕もこのブログで気圧やばくて頭痛やばいと幾度か述べていたけれど、ネットとか見てても、4月・5月に気圧の影響で頭が痛くなっている人結構多く見かけた。

やっぱり・・・。←ww

4月・5月と比べると、やはり今は楽というか、頭痛がまあ、楽な方で、いいです。

そういえば・・・。

今後やはり、「コーヒー」飲めないなと、昨日思った。

コーヒー、それほど飲む感じでは自分ないんだけど、暑い季節になるとアイスコーヒーが飲みたくなって、飲みたいんだけど、昼頃コンビニコーヒー一杯飲んだだで、昨日の夜全然眠れなくて、午後9時ごろベッドに入ったのに、寝れたの午前2時ごろだった。

すごく、しんだかった。

もう、コーヒー一杯すら、僕はやめた方がいいなと思った。

コーヒー一杯の美味しさよりも、夜眠れる方を、やはり取りたい。

しかし、こういうこと、僕はすぐ忘れてしまって、またコーヒー、飲むのだろう。

一杯のコーヒー。

はあ・・・。

出来るだけ、飲まないように、したいと思っている。

・・・・・。

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6月2日「表現とは何か。言語(言葉)とは何か。」

「表現とは何か。言語(言葉)とは何か。」

今日、よく書くな・・・。

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6月2日水曜日。時刻は午後3時。

表現や言語(言葉)を語るとき、まず注視すべき点はそれがどこの「空間」か、もしくはどことで区切っているか、誰向けに対しての表現・言葉であるか、という点だと僕は思っている。

分かりやすい感じだと、キューブ(立方体空間)を思い浮かべて欲しい。

例えば、おそらくこれを読んでくれている人は日本人であり、また僕も日本人であり、こうして日本語で一定の読者と筆者(僕)とのコミュニケーションが成立している。

それはつまり、日本語を理解できない人はそのキューブ(日本語が理解できる空間。)から除外されており、日本語を理解できる人たちでのみ、つまりキューブ内でのみ、そのコミュニケーションが成立している。

表現とは言語(言葉)とはつまり、それによってまず「区切り」を設けて、理解できる人と理解できない人を分ける性質がある。

表現とは言語(言葉)とはつまり、「分断的性質」から、すべては始まっている、と考えてもらってもいい。

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・・・・・。

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先ほどの例で、日本語を理解出来ている人と理解できていない人という分かりやすい区切りで説明したが、実際の所、日本語を理解出来ている人中でかなり、そこに区切りや分断が生まれている。

つまり、例え日本語が理解出来て、その日本語を読めたとしても、その表現や言葉(言語)を理解できるとはまた別の話であり、その日本語が理解できるという区切り中でさらにAという表現は理解できない、理解できるという分断・差異が生まれてくる。

それを理解できるのはその言葉が理解できるかどうかというよりも、その人の本質や人生観・考え方の違いであったり、つまり人の性質によるところが大きい。

もしくはまた、表現する側が閉じている、つまり伝える相手に伝わるように伝える力が不足している、という感じ。

お笑いの話で例える。

お笑いの手法、今までのお笑いのはやりすたりを見てきて、お笑いの中で最強と言えるのは僕は「モノマネ」(もしくはあるある)であると思う。

というか、ほぼお笑いの中での実力者がほぼ確実に、モノマネの力があるし、一定の期間、自身のモノマネの力を利用して今の地位にいることが多い。

人を笑わせる時、それを分かってもらう時、例えば「コント」は、遠い。

どちらかというとやはり「コント」よりも「漫才」の方が、近い、つまり観客に寄り添っていると言えると思う。(キングオブコントよりM1の方が圧倒的人気のように)

誰かを笑わすとき、自分がこれは面白いと思ってやっても、あまり意味がなく、どうしたらちゃんと観客に受けるか、つまり「笑いの伝わりやすさ」を意識しないといけない。

先ほどの話に関連付けて言うと、コントの場合「分断」が大きく行われており、「モノマネ」の場合、分断があまり行われず、広く、大勢の人に理解してもらえるという話。

伝えるためには、どの程度、その表現や言葉が分断を生むか、自分はどの程度の分断を想起してその表現をしようとしているのか、当たり前かもしれないが考えないといけない。

例えば文章表現の場合、「詩」というのはだから、とても分断が強い。

自分の中ではその表現はとても美しく、素晴らしいものと思っても、なかなか伝わらない。

しかしその詩を、「いいリズム」と共に奏でると、とてもいい曲になり、『意味はよくわからないけれど』、多くの聴く人に共感してもらえたりする。

つまり、サウンドというのは、分断が薄く、伝わりやすかったり。

・・・・・。

・・・・・。

伝えるためには、その表現がどの程度の大きさの「キューブ(表現理解空間)」を生んでいるのか、ある程度想起してやらないといけない。

狭いキューブ、さっきの話で言うと詩は、理解できる人がそのキューブに入りづらく、狭い。

理解して欲しいならば、それ相当にキューブを広くしないといけない。

自分の表現が何のためにやっているのか。

理解されたいが第一なのか、自分消化が第一なのか、その辺りを考えないと、表現というのは難しい。

理解されたいならば、理解されることをまず、重要視しないといけない。

例えばこれは結局、コミュニケーションと同じであると思う。

人と話すとき、当たり前だがその人の顔を見て、その人に伝わるようコミュニケーションする。

表現も同じである。

背中を向けていては、当たり前だが、伝わらない、伝える気がないと相手に捉えられてしまう。

伝えるためなら、相手が何を知りたいか、相手が何を求めているか、そこから始めないといけない。

自分本位では、表現は中々成立しない。

自分が表現したいことより、相手が何を表現して欲しいか(自分に)、そこを考えないといけないという、ある意味表現の矛盾や錯覚がそこにある。(対面のコミュニケーションではそれが当たり前なのに、気づけないのが難しいところ)

・・・・・。

・・・・・。

そんな感じである。

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6月2日「自分の自己表現を振り返る」

「自分の自己表現を振り返る」

さっき書いた日記の続きの話です。

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6月2日水曜日。時刻は午後1時。

パソコンのフォルダ、というか実際、これらは「HDD外付けハードディスク」に保存してあるものなのだけれど。

それを今整理していて、その中の自分過去アウトプット表現フォルダを今見ているのだけれど。

その中で、形として最低限成立しているものの最古として、「N19」がある。

N19はこれは、自分で作ったサイトであり、その時htmlとか覚えたくて、それと同時に自分の基地であるサイトを持ちたくて、やっていた。(たぶん今はネットにはないと思う。Htmlの形で保存してある。)

なので僕だけではそのindex.htmlからそのサイトを見ることが出来るのだけれど、懐かしすぎて泣きそう。←ww

これが更新日時を見ると「2013年」なので、8年前、そう思うと、やはり20~23歳頃はそういう余裕すらなかったことが窺い知れる。

自分が25~26歳ごろ、たぶんバイトをし始めたあたりで、やっと僕は最低限、人として、歩み始めたことが出来たのだろう。

その頃が、僕の始まりと言ってもいいかもしれない。

実は、高校や中学の頃から「写真」を一部の季節だけは撮っていたりして、そういう軌跡は残っていたりする。

ただ、日記的に、文章的には残ってないから、分からない。(一応、紙媒体でちょっとしたそうした記録をつけていて、それは残ってはいるが。ネット的には、やっていない)

「N19」から始まって、その時すでにそのサイトのコンテンツ派生で「yとI」が生まれているのには驚いた。

そんな頃から、「yとI」はあったのか。

一応「N19」(ちなみにサイト名はN19ではなく、自分だけが分かるよう略して総称しているだけ)内にyとIはあるのだけれど、これは単独コンテンツで行けるのではと思い、はてなで「yとI」単独でブログが残っている。(「yとI」もまた、略して述べている)

「N19」をやって後、他に色々自己表現を残したものがあるが、どれもそれほど続いておらず、また形としてもあまり成立していない。

そして、次にまともな形として最低限成立しているのは「眠れない人の音楽解析」であり、これは2018年に始まっている。

おそらく2013年に何かしらアウトプットをしたいと思い、結局ダメだって、その後バイトを数年やった後、今の会社でちゃんと働き始めて忙しく、また働くことで一杯一杯になり、自己表現をする余裕がなかったのだろう。

そして2013年から5年後、今から2年半前、眠れない~を始めている。

大体、自分が「30歳」ぐらいの時。

「眠れない」を1年ぐらいやって、それで結果が出なくて、それで他人に読まれるアウトプットを諦めて始めたのがこのブログである日々徒然だ。

日々徒然を始めたのが2019年で、2年前。

日々徒然も、最初の方はこのブログで他人から読んで欲しい、という意識が強かった分、すごく自分を演出というか、ブログ発信で自分を知ってもらうために色々やっていたと思う。

しかしそれも結局誰にも見られず、他人のためにブログやってててもダメだと思い、このブログはあくまで自分整理のために活用して、それ以外に何かやろうかなあと思って始めたのが「部活」。

この部活を始めたのが去年。

その部活もはじめの方はかなりしょうもないというか、そもそも最初の方は自分が今できる唯一のアウトプット的にやっていたのだけれど、このアウトプット、何かいいなと気づいて、それは何かを、自分だけではなく他の人と共に作業して築いてきたのがこの1年。

だから、本当にこの部活だけが、この10年でまともに他人と向き合ったというか、ちゃんと他人の目を意識して作ってきたもの、と言えるのかもしれない。

10年かけて、やっとか・・・。

そもそも、こういうアウトプットというか自己表現って、まずは自分のリアル・自分の生活が成立していないと出来なくて、だってあくまで自己表現とかって結局「虚無」だから、「最悪の20代」(ちょっとワンピースの最悪の世代とかけてる。←ww)を経て、やっとたどり着いた自分なりの「真理」なのかもしれない。

この部活が、いいのか悪いのか、そのいいのか悪いの基準はやはり他人から評価されるかされないかは、まだ分からない。(今の所はほぼ評価されてない。)

しかし今は、これが綺麗では?と思って、やっている。

また、結局、ある意味僕は、自分は表に立つ側ではないと気づかされたのが、この10年だったのかもしれない。

つまりテレビ番組で例えると、僕は演者ではなく、裏方側、裏方側しか出来ないのでは、と、痛烈に感じられたこの10年だったのかもしれない。

それは単純に、自分のアウトプットが評価されなかったから。

自分のアウトプットが評価されなかったけれど、自分の表現したい何かは持っている。

だからそれを、共感してくれた方にしてもらう。

ある意味「寄生的に」、僕は表現している、したいと思っているのかもしれない。

自分の無力さ、自分の無力さを切にこれまで感じ、それでも自己表現の輪の中に加わっていたく、自分ではできないから、してもらう、もしくはその表現の場の仕組みを作る側。

今の僕の部活における立ち位置は、そうなのだろう。

以前から幾度も述べている通り、この部活は何のためにやっているかというと、自分がそこにいたいから、納得できるコミュニティーに入りたくて、そのコミュニティーが世の中や社会のどこにもないから、自分で作った、という感じだ。

なので僕は別に、このコミュニティーに何も求めていなく、唯一それは、そのコミュニティーがそのコミュニティーである、ということだ。

それがおそらく、これまでの自分、そしてこれからの自分が、一番求めていることだから。

だからある意味この部活は、利益を何も生まない「会社」を作った、と言ってもいいかもしれない。(部活の運営を会社的にやると、以前から述べている)

5年ぐらい前に働き始めて、また最近経済に関心を強く持ち始めて、「会社」の面白さや社会的意義を、すごく感じ始めている自分がいる。

それまでは、例えばアーティストとかにすごく尊敬とかを抱いていたけど、その価値観が少しずつ薄れ、確かにアーティストはすごいと言えばすごいけど、そのすごさは世の中や社会の中での一面に過ぎないよな、例えば大企業は、そこで雇っている多くの人の生活を支え、それはつまり彼らの幸せを支えているのだなという想いで、会社に対する尊敬が強まって、今の僕に至る。

まだまだ僕は何も知らない。(←は?←ww)

常に想いや思考は変化していて、今の僕の場合、その思考や想いを部活と共に生きることで、自分にとっての心の安定があるものだと、今は思っている。

ふう・・・。

・・・・。

・・・・。

疲れた。

・・・・。

・・・・。

・・・・。