8月6日その2「おやすみなさい。画面の向こうの君が、幸せに眠れますように。僕は、祈り続けています。なんてな。」

ちょwwww

wwwwwwwwwww

うふうwwww

ちょwwwww

今日一本目の日記、暗すぎワロタ。

・・・・。

まあ、暗いんだけどね。

今もわりかし、暗いんだけどね。

「気持ち」が、結構、「頭痛」に左右されちゃうんだよね。

その左右も、結構、「曖昧」で。

この「頭痛の程度」。

ぶっちゃけ僕自身も、正確には掴めない。

ずっと頭は痛み続けている。

痛み続けているんだけど、その痛みの「強弱」はある。

痛みが「弱」になれば、心の余裕が出来て笑えるし健常者に近づけるし。

痛みが「強」になれば、ただただ「絶望」しかない。

痛さの具合。

痛さの程度。

それは身体の疲れと心の疲れが主に左右していく。

頭痛と身体と心。

この3つの混じり具合によって、今日の僕の「頭痛具合」は決定されていく。

この3つはお互い作用し合っていく。

その3つのバランスや調子を、僕は正確には捉えることは出来ない。

現在の痛みがどれが一番の原因なのか、それらをいちいち正確に捉えるのは難しく、もうそんなんあまりしたくない。

僕は何もしたくない。

僕は何も考えたくない。

僕は何も想いたくない。

これが、僕の基本的な立ち位置だ。

何もしたくないという状況から、僕は想っていく。

何も考えたくないという「心理空間」「精神空間」から、僕は存在し始めていく。

「暗闇」から僕は始まっていく。

「無」から、僕は「呼吸」し始めていく。

だから、すべてが面白い。

だから、動くものすべてに面白さを感じれる。

僕は暗闇から始まっていく。

僕は無から始まっていく。

僕はよく、目をつぶる。

家に帰ればまず、ベッドに横になって目をつぶる。

僕はアイマスクをして目をつぶる。

目をつぶった世界は優しい。

暗闇世界は愛おしい。

見ないということが、こんなに「尊い」ものなんだということに、目をつぶり続けると見えていく。

そしてまた、何かを見るということが、とても「素晴らしい」ものだということに気づいていく。

目を閉じることで、どちらも見えてくる。

目を閉じることで、見ない世界・見る世界、どちらの素晴らしさも分かってくる。

どちらも価値がある。

どちらも同じくらい、尊い世界。

目を閉じる時間が、僕は多い。

暗闇の中で息づく時間が、僕は長い。

目を閉じると、「安心」していく。

ベッドに横になって、身体休めて目を閉じてアイマスクすると、とても「平穏な世界」が訪れる。

何も求めないことが素晴らしい。

動けない動かないことが愛おしい。

ただ息づくだけで・ただ横になっているだけで、とても「幸福」を感じていく。

頭痛は強制的に、僕の目を閉じさせる。

目を開けていては、辛いから。

目を開けていては、頭の痛み強く意識し続けるから。

目を閉じていても、頭痛はする。

しかしそれは、目を開けている時よりかは、「軽め」になるというか。

痛みが「全体化」するというか。

自分の身体全身で、頭痛の痛みを負うというか。

目を開けていると、頭の痛みが全部、頭に負わせてしまう。(頭痛だから当たり前なのだがw)

目を閉じることで、頭の痛みを全身で支える。

目を閉じることで、頭の痛みを自分全体で負担していく。

頭痛のせいで、僕は目を閉じる時間が多い。

クレイジーな頭痛のせいで、僕は「見えない世界」・「暗闇世界」にいることが多い。

幸せか?

そんなに幸せではないだろう。←ww

でも、そこで、「楽(らく)」を感じるんだ。

目を閉じていることが、幸せに感じるんだ。

強の頭痛が弱になるまでただひたすら耐え待ち続ける時間が、愛おしく感じてしまうんだ。

Mかな。←ww

俺、Mかな。

Mかもしれない。

Sだと思っていたけれど、俺はMなのかもしれない。

頭の痛みを享受することで、見えるものがある。

頭痛のせいで目を閉じなくてはいけなくなることで、感じられるものがある。

そこで見えてくるものが愛おしい。

そこで感じられるものが、愛おしい。

自分が健常者だったら、見えなかった世界だ。

自分にこのクレイジーな頭痛がなかったら、知らなかった世界だ。

辛いけど、時に面白い。

痛いけれど、不幸だけれど、幸福ではない、ということではない。

幸不幸を決めるのは、心の安定さ。

心の安定さで言えば、目を閉じて頭痛を耐えている時間は、どちらかというと「安定」している。

ひどく低いところで、安定している。

ひどく呪われたところで、安定している。

ひどく深海じみたところで、安定している。

地獄から見上げた地上の世界はとても美しく見える。

俺はわずかでも、起き上がることが出来るから。

健常者の人たちよりかは少ないけれど、俺は「普通に近い形で」生きることが出来るから。

健常者と非健常者のはざま。

健常者と非健常者を行ったり来たり。

僕はどちらも体験している。

僕はどちらの顔も持っている。

知らないことは不幸だ。

知は「幅」を生む。

知は「思考空間」を広げていく。

不幸だけど幸福。

幸福だけど不幸。

僕はどちらも知っている。

僕はその二つを、めまぐるしく行ったり来たりしている。

すごく「曖昧」に。

すごく「鮮明」に。

僕は生きている。

・・・・。

疲れた。

そろそろ寝ます。

また明日。

また明日、また、想えるといいよね。

伝えるのって、難しいよね。

たぶん、「嘘」が多く混じっているだろう。

たぶん、「矛盾」が多く混じっているだろう。

それは嘘や矛盾というよりも、正確に伝えられていないだけだろう。

僕自身、僕を「曖昧」にしか捉えていない。

僕自身、僕が分かっていない。

正確には伝えていない。

本当のことしか言ってないけど、100%本当のことは一つも言ってない。

伝えるって、難しい。

アウトプットって、難しい。

でも、楽しいよ。

僕はこれまで、「本当の僕」を言うのを避けてきたから。

自分の「異常な部分」「非健常者な部分」をさらけ出すのを避けてきたから。

それは恥ずかしいと思っていたから。

健常者ではない自分が醜いと思っていたから。

健常者だと思っていたから。

自分が健常者ではないと認めたくなかったから。

外見上、俺の頭痛は誰にも分からない。

外見上、俺の頭痛は誰にも理解されない。

辛い。

普通に振舞うことが、ひどくしんどい。

普通なことが出来ないことが、ひどく惨めだ。

僕は吐き出したかった。

僕は僕を吐き出したかった。

「本当の自分」を、僕自身知りたかった。

よかった、ここまで生きてこれて。

よかった、まだ死んでいなくて。

よかった、よかった。

・・・・。

おやすみ。

またね。

おやすみ。