あ。
「働くとは何か」とか、「仕事とは何か」という問いは、基本的に考えても無駄というか、最初から空虚な、本質を見誤った問いだと僕は思う。
まだ、「生きるとは何か」という問いの方が答えを見つけやすいというか、解答が用意されている質問である。
ではなぜ、働くとは何かや仕事とは何かという問いが本質的に間違っているのか。
その前に、働くとか仕事というものを、「二つ」に分けた方がいいと僕は思っている。
その二つとは、働くことの「お金を稼ぐ部分」と、「人と交わる部分」である。
この二つを絶対に分けた方がいい。
というか、この二つがごっちゃになっているから仕事とは何かや働くとは何かという問いが無意味になっている所がある。
その二つの部分でより僕たちにとって異質なのは、「お金を稼ぐ」という部分である。
それは何か。
ぶっちゃけそれは、人にとって一番遠い、人らしくない、人が理解出来ない所であると思う。
人というのは、人(他者)を通じて「心」を生み出せるものであって、心がないお金というのは一番理解しにくい所である。
して、お金を稼ぐとは何か。
僕は、それは、以前にも述べたけれど、「油」であったり、いい意味で「歯車」だと思う。
つまり、お金を稼ぐとはいい意味で、社会の「部品」になることから生まれるものだと思う。
やりがいのある仕事、好きな仕事という言葉に僕が違和感を感じるのもそこの原因がある。
仕事である限り、お金を生み出すものである限り、確実に「心ではない部分」が存在する。
というか、仕事の半分以上は「心ではない」部分だと僕は思う。
そういう仕事である仕事にやりがいとか好きだから、というのを持ち込むのは、自分を疲弊させるだけだと思う。
だからある意味、仕事をしている自分というのは、「ロボット的側面の自分」である方が、僕は自分的にも「納得」出来ると思う。
お金に「心」を関与させない方がいいと僕は思う。
そして面白いのは、多くの人にとって、仕事の半分はちゃんと「心」、つまり「他者とのコミュニケーションツール」である点だ。
お金持ちで、すでにお金を稼ぐ必要がない人が働く理由もそこにあると思う。
彼らにとって仕事の意義の中で、「人と関われる」もしくは「自分のアイデンティティーをより高めてくれる。(他者との交流によって)」のが仕事になっているからだ。
仕事とはお金を得る自分ロボット的側面と、他者と触れ合い自己を発見出来る心的・精神的側面との二つに分ける。
この、相反する二つを入り交じて、仕事とは何かとか働くとは何かを述べるのは非常に外れているというか、出口がない迷路のようなものであると感じる。
なのでぶっちゃけ、言ってしまえば、生きる上で仕事とは必要不可欠ではないのだ。
仕事以外で他者との接点(社会との接点)があれば、それで「生きる」はある程度完成されていくと僕は感じる。
生きる上で仕事とは必要不可欠ではない。
しかし仕事とは非常に他者と接しやすく、また社会観察や人間観察に適しているとも言える。
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そんな感じです。←ww
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また、これはまた少し話が逸れるかもしれないけれど、その「ロボット的側面」というのも、結構社会や人を知る上で重要な視点だとも感じている。
歯車になることで社会という構造を理解出来るというか。
社会とは、実際の所、人だけではない、というか・・・。
例えばさ、分かりやすく言うと、社会とは「法」であったり、「制度」であったり、そういう社会の仕組みであったり構造であったり歯車であったりするもので、社会とは形作られているじゃん。←ww
そういうい、「非人間的な」・「非精神的な」もので社会とは形作られていることを、自らが歯車となることで理解できるというか・・・。
だから何が言いたいかと言うと、仕事とか働くというのは、この世の中を理解するのに欠かせないものではと思う。←ww
別に理解しないくても、「生きる」は成立するけど。
より、社会や世の中とは何かを知る場合、働くことで「新たな観点」、それは自分の心優先した観点ではなく、社会の歯車となってロボットなって心をあえて失くすことで感じられる部分というのもある。
何が言いたいかと言うと、結局今の僕というのは、今の「仕事」で、色々「成長」出来ているのではとやはり感じる。
やっていることはとてもつまらない仕事だけど、自分本位ではない、「お金の世界で廻ること(廻される)」で、理解出来ることも多いということだ。
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とまあ、そんな感じで、月曜日お疲れ様でした。←www
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