9月5日「昨日の話の続き。眠るということ、死ということ、眠れないということについて。」

昨日の「眠れない」話の続きみたいなもの。(寝てないんかい。←ww)

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9月5日土曜日。時刻は午後11時半。

10時に寝ようと思って、ベッドで横になって眠るのを待っていたんだけど、寝れなくてこうして書いている。

昨日も述べたけれど、僕の人生にとってこの、「眠れない」もしくは「夜」であったり、「今日の最後」であったり、「一日の終わり」であったり、それはつまり「死への入り口」であったりする、この時間帯への『問い』こそが、すごく僕のキーポイントとなっている。

これを解くために僕はまだ生きていると思うし、しかしそれはおそらく死ぬまで分からないことなのだろうけど、この最大の謎を解き明かしたくて、僕は僕のすべての生きるをプレイしているのかもしれない。

一日の終わりというのが分からないし、その一日を終わらせることがなかなかできない≒眠れない自分の気持ちというのが分からないし、そこに大いなる「謎」が詰まっている。

「昼」というのは、何だろう、はっきり言ってしまえば「意味がない」と僕は思う。

昼というのは「表」であり、昼というのは「歴史に残る歴史」であるが、実質的人間のすべて、人間が人か人でないかの境にあるのは、人の「夜的」もしくは「夜側の」人にあると僕は思う。

夜というのは、もっと具体的に言うと眠る間際、つまり一時的死ぬ間際に、人は「何か」を確実に毎回掴んではいるが、しかしそれで一日は終わってしまって、また朝になって一日を繰り返す。

「眠る瞬間」というのはこんだけ人が歴史を刻んでいながら、誰も「認識」出来ていないのは、僕は「ユニーク」だなと思う。

寝たと思ったら意識は無意識に言ってしまう。

そこは、面白いなと思う。

つまり、眠る間際、一時的死ぬ間際とは、人の意識と無意識の間際なのだ。

人が思考している状態から、人が考えることを止めた状態(意識的に)へと移り変わる時間。

この時間が人にとって、とてもユニークだなと僕は思う。

人の間際。

それは他の状態に例えるならば、「本能なる状態」に近いと思う。

本能とは、意識的に学んでいなくても、無意識に自分が動いてしまう状態。

例えば男性が女性のおっぱいに近づいたら、吸ってしまう感じ。←www

「無意識に動いてしまう自分」というのを、僕は大変興味がある。

「自分」というのが厄介で、「自我」というのが厄介で、僕たちは言うなれば自分の「意識」を捨てたいのかもしれない。

つまり、僕たちは「心」を、捨てたいのかもしれない。

その機会を得られるのが「眠る」ということであり、しかしその心を捨てたくないというの葛藤が、「眠れない」という状態なのかもしれない。

眠れば、つまり死ねば、救われると僕は思う。(とりあえず、色々な条件は省いて。)

しかし眠ってしまえば、死んでしまえば、そういうことを「想う」ことさえできない。

救われる最終的な手段とはいわば、「人を辞めること」。

それ以外はないと思うし、生きている限り僕たちは何らかの形で「罪」を負っていくものだと僕は感じるし、いつまでも僕たちは「虚しさ」を感じて生きて行くのだろうと思う。

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誰も自分を少ないし、救えるとするならば、自己を捨てる≒眠ること。

終わりにしか解答はないが、終わってしまえばそれが解答とすら認識できない。

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などと、色々妄想してしまう眠れない僕である。

そういう意味で、眠るまでの時間、つまり夕方から深夜までの間というのが、「夜」を考える上で、「死」や「眠る」を考える上で、重要な時間帯だと思うし、そして僕はその時間帯に、今の「部活」をやっている。

そういう感じである。←www

という感じで、寝れるなら寝ます。

あ~、おちんぽ~~。

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