9月8日その3「意識と無意識。言葉の話。一日の話。眠りの話。その他もろもろ」

また書く。(寝てないんかい。←ww)

・・・・。

9月8日火曜日。時刻は午後11時過ぎ。

たぶん全然分からないことを書くと思うけど、まあ適当に忘れてくれ。(なー)

以前にも述べてけれど、僕たちにおいてすべては「一日」つまり「今日」であり「その日」に集約されていて、人生とはただの一日の「繰り返し(巻き戻してまた再生を繰り返す)」であり、また「眠りにつく」というのはいわば「簡易的死」だと僕は考えている。

一日を終えることは「終わり」であり「死」。

僕たちの「すべて」とはそれであり、だから、僕はあまり「長生き」をそれほど素晴らしいことだと思っていない。

短く、若くして死んでしまうのも、長寿も、等しく「死」であり、生きている人は若くして死んだ人に「惜しい」とか「より悲しい」と思うかもしれないけれど、若くして死んだ人も、長寿で死んだ人も、僕は等しいと考える。

何故なら同じ、「一日をもって死んだ」のだから。

一日をいくら多く繰り返したとしても、価値が上昇することはない。

等しく死であり、そう考えると、「生きていること」は「それほど意味がない(≒限りなく薄い)」と僕は考える。

すべて、何というか、一枚の薄い紙の中にすべてが束なっているような。

あまり意味を、拡大しない方がいい。

というか、何だろう、やはり人というのは「考えすぎ」だなと思う。

もう少し「獣のまま」でいいと思うし、やはりそこは、『言葉』というのが、いい意味でも悪い意味でも人と人たらしめているなと感じる。

その「言葉」。

言葉について僕は、このブログでどれほど説明したっけ?

あんまり説明していなかったっけ?

言葉というのはすごく厄介で、言葉があるからこそ、僕たちは色々、面倒なことを背負っているという感じなことを。(例えば、「幸せ」という言葉があるから「幸せ」を考えてしまうのであって、幸せという言葉を知らなければ幸せを考える必要も無い。)

言葉と言わば、アダムとイブの話に出てくる「リンゴ」のようなもので、一度それを知ってしまったからこそ、僕たちは一生「負う」ことになっていくと。

いずれにせよ僕たちは、「言葉」なのだ。

解決するのも「言葉」だし、また救われるのも「言葉」である。

獣とか生き物とは本来、『滑らかなもの』だと僕は捉えている。

そこに人間が言葉を知ってしまったことによって、「濁る」というか、「砂」や「土砂」が混じってしまって、「流れに変化を与えてしまう。流れを主に、緩めてしまう」。

言葉がすごく、僕たちを「迷子」にしてしまう。

「意識」と「無意識」を、僕はよく考える。

意識が人間的で、無意識がケモノ的であると僕は思っている。

意識が言語的で、無意識が生物的であると。

なので、話を戻すと、「眠りにつく」というのは、言語の世界からケモノ的な、非人間的ところへ落ち着いていく感じになる。

眠っている時、僕たちは言語を持たない。(まあ、語弊を生むかもしれないが、とりあえずそうとしておく。)

故に「救い」であるし、故に「カオス」である。

どちらがいいと考えても、もう考えている時点で「負け」な気がする。

どちらも人は併せ持っているというか、生きている間はその二つを行き来い出来る点は、生きている点の「特異な点」と考えておこう。

「言語」がその二つの世界に差を分ける。

起きている間、意識がある間は常に僕たちは言葉に「監視」され、言葉に運命づけられている。

眠りにつこうと眠りへ向かう時、その「粒子(≒言語的土砂)」が少なくなっていき、どんどんと「滑らか」になってゆく。(≒言語の型を外していく。言語的思考から逃れていく。)

僕たちが触れることが出来るのは、その眠りにつく間際の、小さな小さな「粒砂」である。

これが、すごく「キー」になると僕は思う。

最後の手がかりというか、眠ってしまえば意識なく、言葉がないのだから、「証拠」や「証」がない。(話逸れるけど、ここは結構怪しい話になるからあまり書かないけど、その眠りの時間、無意識の時間とは、ぶっちゃけ「宇宙」である。←ww。無意識の時間とは「宇宙」に繋がる時間。だから、ぶっちゃけ僕は、「スピリチュアル」を一般的な感じほど馬鹿にはしていない。スピリチュアルというのは、2割ぐらいは真実だと僕は思っている。ただ、それは宗教と同じくやはり、信じていないモノにとっては馬鹿にされるものだし、また馬鹿にされる、怪しいと思われるものって、実際真実なのである。ここら辺も詳しくはいずれ述べようと思うが、「正しさ」なんて結構、脆いモノである。)

「言語」でしかやはり、僕たちは「共通認識」出来ない。

言語でしかやはり、僕たちは「納得」や「理解」が出来ない。

ギリギリ怪しくない時間。

それこそが眠りに落ちる前の間際の時間であり、自分の中の言葉が少なくなっていく時間である。

「最期の言葉」というのを、何だかんだ僕たちは重視する。

それは、その言葉を発する人にとって、やはり重要な、大切な「意志」だからである。

言葉でしかやはり、僕たちは僕たちを説明出来ない。

言葉でしかやはり、僕たちは僕たちを表現出来ない。

言葉でしかやはり、僕たちは僕たちを理解出来ない。

そういう意味で・・・・。

そういう意味でだから、「他人に承認される言葉」というのは、すごく価値があると僕は思う。

そういう意味でだから、「他人に理解してもらえる言葉」というのは、すごく「愛がある言葉」だと思う。

他人に理解してもらえることで、自分の「存在」がそこにあるから。

僕たちが生きる罪を背負ってまで、言葉を必要としているのはそこに何か、何かがある気がする。←ww

つまり・・・。

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・・・・・。

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おやすみなさい。←ww

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