9月26日「部活についてのこと。」

おはよう。←ww

昨日の夜は疲れていて書けなかった、「部活」についてのことを早いうちに書いておく。

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9月26日土曜日。時刻は午前10時。

何度も述べたけれど、キーワードは「二人」。

それで、改めて今週感じたのは、僕たちの生きる最小ロットというのがこの「二人」なのではと思った。

ふむ。←ww

つまり、僕たちの生きるの最小は一人ではなく二人。

つまり、「他者」がいてこそ我々は存在出来ていると。

一人などはじめから存在しない。(違う言い方をすると、一人の人間は他者があってはじめて一人になる。一人は二人であるということ。)

僕たちは常に、「二人」で生きている。

何故それが言えるかというと、僕たちの生きるとは常に、「何かを想っていたり」、また「誰かのことを考えている」から。

「想って」こそ、我々は存在しうる。←ww

頭空っぽでは、私たちはいなくて、何かを想う、その何かとは、「他」であると。(少々強引だが)

何かを想った時に、我々は存在しうる。

つまり、考える対象と考える自分、その「二つ」があってはじめて私たちは私たちであると。

「2」。

この数字こそであり、この数字が今の部活の根幹にある。

自分というストーリーは、自分一人では成立しない。

自分という人間は何かや誰かがあってはじめて成立する。

その「他者性」を強く認めることが、まずこの部活の根幹にある。

自分という存在は、誰の存在が大きくあって今の自分があるか。

何をよく想っているか、誰をよく想っているか。

それで、昨日例を出したのが、漫画の「岡崎へ捧ぐ」である。

この漫画家の精神は、幼少期の「岡崎さん」と共にの過去があって始めて成立する。

この漫画の今があるのは、「岡崎さん」が強く影響している。

その人に向けて、その人に捧げるように「~へ捧ぐ」というタイトルがつけられている。

このような感じを、今の部活でも出来ないかなあと考えている。

ここで面白いのは、「2」は「2」だけでは成立しない点だ。(←は?←ww)

つまり、「岡崎へ捧く」を書いた漫画家の今は岡崎さんがあって成立したのだけれど、彼女がこうして彼女の声が僕たちに届いたのは、その声をちゃんと、美しい物語として「発した」ことにある。

発した。

それは、「僕たち」に対してである。

つまり、この漫画家がこの漫画たらしているのは、「2つめの他者性」、つまり、読者である「僕たち」というのがある。

この漫画家と岡崎さんの二人の物語を書くことで、この漫画の存在が、他人である僕たちにも伝わってきた。

これはぶっちゃけ、いるのかいらないのか。

言ってしまえばこの漫画家は僕たちなんて要らなくて、岡崎さんがいれば彼女の存在はある程度保障されている気がする。

なぜ彼女は、こうして岡崎さんとの漫画を描こうと思ったのか。

それはやはり、僕たちは第2の他者である「社会」の中で生きているから。

常に僕たちは、第2の他者、匿名の不特定多数の人たちと共に、生きている気がする。

自分のアイデンティティーは確かに近しい人(1つめの他者。)でまずは成り立つけれど、それだけでは何か、足りない気がする。

大いなる他者、大海なる他者である「社会」に自分がある程度認められて、僕たちは初めて存在出来る気がする。

そのためにはやはり、第2の他者、つまり社会に認められるような、社会を意識した、社会に向けての自分であったり自分の言葉を僕たちは欲しているのではないだろうか。

つまり、今の部活は本来自分と最初の他者である二人のクローズドなものであるのだけれど、そのクローズドだけではなく、その次の他者へ向かって叫ぶために、もう少しその自分と最初の他者との物語を社会を意識して、第3者の目を意識して書く必要があるのではないか。

だから、文章冒頭と矛盾するが、2ではダメで、「3」、必要なのではないか。

もちろん「2」だけでも成立するが、「3」あると、より何か認められたような、改めて自分を振り返れる・感じられる気がする、のではないか。

これが、この部活の根幹に今は据えているものである。

つまり、魅せる〇〇。

自分にとって大事な大切な人と共に自分を語ることで、その語りを第3者を意識して書くことで、改めて自分を再認識する。

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そんな感じで、今日もおはよう。←ww

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