10月2日「何者を巡る冒険。」

「何者を巡る冒険」

以前にもしかして、同じタイトルのものを書いたかもしれないけれど。

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10月2日金曜日。時刻は午前9時。

最近思うのは、この「何者」というのは大まかに「二つ」に分類されるなと思った。

また、この二つを分けて考えることで、「僕たちはどう生きるか」も色々考えることが出来る。

何者。

それは大まかに分けて、「社会的何者」と「個人的何者」に分けられる。

一般的なのが、「社会的何者」だと思う。

よく使われる方の何者。

私たちは何者でもない(何の社会的肩書もない。有名ではない。)

何者にならなくて、なれない若い人たち、的な。

有名ではない、私たち、という意味の方。

これが社会的何者。

社会の大勢の人たちに「何者である」と認められて初めて、自分が何であるかが名付けられる感じ。

一方、個人的何者。

これは、「近しい人に認められる方の何者」である。

例えばさ、ぶっちゃけ、恋人がいればもうそれだけで、自分の存在が認められるじゃん。

社会的には全くの無名だけれど、愛するあの子がいるだけで、僕たち私たちは「特別な存在」でいられる。

特別な存在。

また結婚して子供が出来たら、その子供にとって親という自分の存在が欠かすことが出来なく、子供にとって自分は唯一の守るべき存在という、特別な存在になっていく。

その他にも、友達であったりや、親であったりや、ペットであったりなども「個人的何者」に属する。

自己とは何か。

それは、どの他者性に帰属しているかによって決まっていく。

個人的他者に知ってもらえても十分満足だけど、もっと広い、大勢の他者がいる社会的何者も私たちは欲しい、的な。

僕たちはひどく、認められたい。

恋愛について思うのは、その人と触れ合い、その人と過ごす時間は永遠なのだけれど、唯一「欠点」をあげるとすれば、それは永遠ではないところだ。←ww

つまり、恋人との自分の関係性は、社会的には全くの「無名」であるところである。

どんなにすごい恋愛をしようとも、その熱の最中にいる時はめちゃくちゃ楽しくて、めちゃめちゃ満たされていることだけど、その他者との関係性は永遠ではない。

つまり、その恋人から離れると(別れるだけではなく、距離的、時間的に離れるという意味。そういう意味で、結婚という契約はそれら心理的距離感を近める役割がある。)、また私たちは何者でもなくなってしまう。

そういう意味で、「個人的何者」は弱いと言える。

たった一人、もしくは数人しか、自分の存在を支える人orペットがいないから。

もちろん「社会的何者」の弱点も多々ある。(今回はそれに触れない。)

しかし社会的何者の良い所は、自分が一人の時も、社会的自分がある程度示されていたら、それを理解してくれる人が世の中にある程度いると思うと、「安心」出来るのである。

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自分がどう生きるかを考えた場合、どちらを目指すか、という話になる。(もちろん、どちらも同時に目指すことは可能だが。どちらの自分を優先して守るか、時間を割くか、大切にするか、という点)

個人的何者の具体的な目指す動きとしては、まあ、恋愛、結婚、周りの人を大切にする、と言った感じである。

社会的何者の具体的な目指す動きとしては、何かしら「有名になる(ある程度の人の自分を知ってもらう)」ということである。

どちらも僕には必要だ。

しかしやはり、社会的何者を意識した方が、何だろう・・・、「自分とは何か」の答えがより、見つかる気がする。(もちろん、個人的何者を探す動きも必要だけれど、個人的何者には限界があるというか、うん・・・・。)

僕たちはやはり、「第3者(≒俯瞰的存在。神的存在)」というのを、非常に欲している気がする。

人の最小単位は二人であるの以前から述べていたけれど、やはり二人では人は満足出来ず、その二人を眺める「第3者(2段階目の二人。←ww)」を、とても欲している気がする。

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おわり。←ww

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