10月12日「空っぽについての考察。~序章~」

「犬飼ユウ君の憂鬱。」

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10月12日月曜日。時刻は午後10時。

別に普通。

特に書くことはないのだけれど・・・。

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1週間ぐらい前に少し述べた、「空っぽ」について、述べていこうと思う。

思うに、僕たちというのはどこまでいっても「空っぽ」だと思う。

それは何だろう・・・、その僕たちというのは、この「現代を生きる僕たち」、ということになる、一応。(まあ、現代以前の人類も空っぽだけれど、より空っぽと向き合う時間的余裕や物理的余裕を最も手に入れているのが我々現代人と言える。)

僕たちはすでに到達した。

(笑)。

いや実際、そうだと思う。

すでにある程度到達して(権利などを獲得済で)、またネットなどによって、より個で向き合う機会が増えて、僕たちはすでに『終わっていることを終えた(終わっていたことを終えた)』と言ってもいいのではないだろうか。

川端康成芥川龍之介が到達した、「漠然とした不安」であったり「ただぼんやりとした不安」というのを、雑魚である私たち凡人たちですら、到達したと言えよう。(漫画家で言うと岡崎京子的な奴)

僕たちはみな、空っぽである。

その空っぽについて、詳しく語ろうか、それともその空っぽの「側(がわ)」について語ろうか。

どっちを書こうか・・・。(また最近この空っぽについてよく想うきっかけになったのは、最近偶然アマゾンで買った、「榎本ナリコ」の「センチメントの季節」という漫画きっかけでもある。この漫画家全然知らなかったけど、僕の好きな漫画家ベスト10に入る山本直樹の女性漫画家バージョンっぽくて、好きです。)

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空っぽの話から少し話逸れるけど、「僕たちは空っぽ」ということを僕は思っているから、「自殺を選ぶ人」に対して、それを制する気持ちは全くなくて、「ああ・・・」と思っている。(←は?←ww)

それは別に、肯定も否定もせず、どちらかというと少し「尊敬」しているというか、「そういう形」がどちらかというと、「僕たちに近い」と僕は思うし、震えながら生きている僕からすれば、怖い死ぬことを自ら「選ぶその姿」は、誤解を呼ぶようだけど、「美しいな」と思う。

そもそも、僕は、「僕たちとは20代、特に20代前半で僕たちを終える」と僕は思っている。

何だろう・・・、言ってしまえば、20代後半以降の人間ってはっきりいって、「ゴミ」だと思う。それは僕ももちろん含めて。

「20代前半で、僕たちは僕たちを終えている」

それの意味するところは、20代前半以上で、あくまで僕の考えだが、「人は進歩しない」と思う。(その進歩が何するかによって、意味あいも違ってくるが。)

何だろうね・・・。

僕の経験則に基づいて、20代後半以降になると、もう、「社会に馴染んでしまう」もしくは、『自分に慣れてしまう』もしくは、「自分を忘れてしまう」感覚が凄いする。

社会に触れてしまったら、もうそれで、僕たちは終わってしまう気がする。

高校生や大学生の、まだ見ぬ、もしくは、「自分の頭の中に存在だけする社会や世界」というのがある意味、最後の「理想郷」な気がする。(その理想郷はあくまで理想郷であって、そんな世界や社会は存在しなくて、まあ、「夢」であるのだが。)

20代前半までは、「夢の中」で生きている、生きていられる気がする。

話少し逸れるけど、20代前半までと、今の30代前半の自分を比べて、どちらが楽に楽しく生きられているかいうと、当然今の、30代前半の自分である。

でも、それはもう、違う気がする。

分からない、(社会というのが)怖い、自分が怖いと強く思っていた20代前半の方が、僕は僕を「僕らしい」と感じていたし、今の僕はその頃を僕を、「何とか守ろう」もしくは、「一緒にいたい」という想いが強い。

もし僕が死んでしまったら、もう2度と20代前半の頃の自分に会えないから。

もしくは、20代前半の自分を知っているのは自分しかいないから、そのために生きている(20代前半の自分を残したいために)という思いが強い。

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だいぶ話が逸れてしまった。

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空っぽについて、どの部分を触れてようかな。

今やっている「部活」も絡んでくること何だけど・・・・。

僕たちが僕たちであるためには、「他者性」が必要なんだ。

誰かが自分の「名」を知ってくれて、はじめて僕たちは自分の「名」が与えられる。(千と千尋の神隠しも確かそういう話だっけ。)

他人の中に生きる自分。

自分の空っぽが「不安」だから、自分とは空っぽだから、それを埋めるために「他者性」、つまり自分を知ってもらうと努力?するのだけれど、いくら有名になっても、つまりいくら他人を求めても、他人の中に自分はいないという矛盾。(←は?←ww)

つまり、他人の中に自分の名は残るかもしれないけれど、他人の中に『自分の心はない』。

自分の心とはつまり、自分で気づくしかない。

自分の心とはつまり、自分で触れようとするしかない。(しかし触れようとしても、空っぽであり透明な自分の心は、永久に掴めない。)

空っぽだという事実は、僕たちから「選択肢」を奪う。

それは二つの選択肢があると思う。

死ぬか、もしくはそれでも、「他者」を求めるかだ。

何も無い状態(=空っぽ)を失くすことが死ぬことである。(ここ、面白いよね。空っぽのさらに空っぽ)

空っぽだから、いつまでも「不安」だから(だから、ある意味、死ぬまで僕たちは平等と言える。僕たちはいつまでも不安を日々抱え続けないといけないし、それは死ぬまでずっとだから。エンディングがないというのが、僕たちにとって一番の不幸と言えるかもしれない。(まるでジョジョ5部のゴールドエクスペリエンスみたい。←ww。笑えん。←ww)

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今日はこれぐらいにしようかな。

もう、だいぶ寝る時間だから。

今、午後10時過ぎ。

あーあ。

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最近、すごく「通勤中の車の運転中の時間」が、すごく気になっている。

そこですごく色々思うというか、「自分」について色々巡る。

ああ・・・・。

そんな感じで、寝ます。

ちっ。(イライラ)

はあ・・・・。

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