10月20日その2「犬飼ユウ的幸福論。」

「犬飼ユウ的幸福論(起きてたの?←ww」

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10月20日火曜日。時刻は午後11時。

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幸福論について、書く。

僕が思うのは、「0な状態が最も幸も不幸もなく、それ故に幸福な状態だと僕は思う」

どういうことか。

つまり、めちゃくちゃ幸せにならない方がいいし、まためちゃくちゃ不幸せにならない方がいい。

何故ならめちゃくちゃ幸せになってしまうと、そこから必ず「落ちる状態」へと言ってしまうから。

そうしてしまうと、「儚さで死ぬ」し、「虚しさで死ぬ」。(まあ、当然ながらめちゃくちゃ不幸せな状態は良くない。ただ、時々それを経験することはまあまあ良いと思う。ずっとめちゃくちゃ不幸せな状態が続いても、人は死ぬ。(当たり前)。

要は、「不感症」な状態がいいというか、幸でも不幸でもない状態を自分のベースとするべきだし、そんな「0な状態」を一番作るべきなのは、「自分の家」であり「自分の部屋」であると感じる。

「0がずっと続く状態」こそ、一番「維持しやすい」というか、幸せをずっと続けるのは難しいし、不幸せをずっと続けるのはしんどいし。

つまり、自分にとっての0な状態。

いや、正確に言うと、少しだけプラスな状態を、自分自身で気づくというか。

何がある状態なら、自分はある程度プラスなのかを、理解することが必要である。

また、何がマイナスになると不幸になってしまうのか。そうならないためには何をした方がいいのか。

また、何をしたらプラスの方向に持っていけるのか。そのためには何をすべきなのかを、「0なる状態」から考えるのが、僕は「最も幸福」ではと思う。

「最高」を目指すのは、最高ではない。←ww

最高などない。

最高は波があるから最高なのであって、波を作らない、出来るだけ波を小さくするのが幸せであると最近の僕は感じている。

つまり、ある程度は不幸せな方が幸せの近道であったり。

また、絶対に自分にとって必要な幸せに気づき、それを死守するためにそれをまず優先させて生きたり。

自分を振り返り、見直すことが必要である。

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「何も無い状態」、「何も無しえていない状態」を、それほど悲観する必要はない。

まだ向かえるのだから。

向かう方向へと行ける、休める場所が揃っているのだから。

  • は、「幸せでも不幸せでもない状態」は、「幸せ」である。

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人が生きていく上で、「喪失」はつきものである。(大事な人を失ったり、家族を失ったり。)

人は皆、不幸を与えらえるように設定されている。

それに対して対抗出来るのは「何も感じない」であり、それが辛かったら、まあ、死ぬしかないよなと思う。(その選択は、別に間違っていないと思う。)

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また、僕は今、何をしたいのか。

結局は、「僕がいてもいい場所」を増やそうとしている。

結局人はどこかに属していたいのであり、そういう「帰属意識」のもの生かされている。(例えば同じ趣味の人と会話したり。共通の話題があることで僕たちはコミュニティーに属することが出来る。)

人は結局一人であり、一つの心というキャパシティーしかない。

人は一つの心でしか受け止められず、とても弱いのだ。

そこに、有名であれ無名であれ差がないことは、平等という言葉の中でも一番平等だなと僕は思う。(確かに、そうだよね。それが一番平等なことだよなと思う。)

「本質」を見失ってはいけない。

他人Aが他人Bを不幸せそうと思っても、実際の所他人Bはそれほど不幸せ出ないことが多く、逆に他人Aの方が何かが欠けていることが多い。(見えていないことが多い。)

生きている限り、まあ、貧困国とかだと厳しいけど、ある程度のお金がある限り(やっぱりお金!)、人に差はない。

そこは、すごく重要なのである。

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