10月22日その2「死にたい気持ちについてと、僕自身についての新たな情報。犬飼ユウについて。」

「死にたい気持ちに関するエトセトラ」

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今日のように、僕は平均的な人より心落ち込んだり、また死にたい気持ちにまみれ、精神的に「ヤバいな」という夜が結構ある。

それで、思うのは、死にたい気持ちというのはある意味、「多幸感」を感じるのは僕だけだろうか。

その多幸感というのは、一般的な幸せな気持ちとは、少し違うかもしれない。

エヴァで例えるなら、映画のラストの、シンジとアスカしかいない世界のような。

死にたいのだから、当然心は「灰色」だ。(この、「色」に例えるのが、僕は重要だと思っている。世界というのは色であり、生きるというのは色であると僕は思っている。死にたい状況だとその色が消えていき、灰色に近い、もしくは白色に近い状態だと僕は思っている。)

死と生の境にいる感覚。

もしくは、生きていながら、「死んでいる側」に「属せる」「優越感」。(ああ、この辺のこと、確か以前ブログでも書いたかも。)

死にたい気持ちでまみれた多幸感とはつまり、「生きる側の幸せ」とは全く違った、言うなれば、生きる側の幸せをすべて「排除」した、もしくは切り捨てた気持ち、という感じか。

もしくは、死者側の幸せ。←ww

今までの生きてきたすべての価値や意味や知識が無に帰っていくことで、生に関することすべてが「阿呆」に感じられる。

生きていながら、自分だけが死んでいられる幸せ。

それを僕は、死にたい気持ちを感じながら感じる「多幸感」であると感じられる。

よかった、現世から離れられて、なんて・・・。←ww

身体が軽くなるというか、今まで振り回されていた価値より自分が「上」にいく感じ。

悪くないけど、気づいたら人を止めていた、なんて危険性も含む。←ww

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最悪を越えた最高、といった感じか。

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生きるというのは色々、「他者」を必要するところが多いし、また、他者に多く邪魔されることが多い。

つまり、生きるということはすごく「他者」が絡んでくるのだ。

生きる上で幸せ不幸せはすごく「他者」に委ねられている。

そういう意味で、死にたい気持ちの「多幸感」はある意味最強であるとも感じる。

すべてを捨て去って、ある意味「己さえ捨てて」、『空っぽに満たされていくから。』←ww

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そんな感じで、もう寝ようと思う。

疲れたから。

自分の、僕の最大の長所は、自分を分散出来てることだと改めて感じる。

つまり、脳を小分けしているというか、一人の自分を俯瞰出来ているのがおそらく一般的な人より長けていると思う。(そうか?←ww)

最近相変わらず「すあだ氏」の作品をよくYOUTUBEで見てるが、すあだ氏の場合、ぬいぐるみを「イマジナリーフレンド」にして、自分の脳を小分けしているが、僕の場合もそれに近い所があると思う。

どういうことかというと、この「犬飼ユウ」という人格は、僕が「高校2年生」の時に作ったのだ。(これって、今日初めて言うっけ?)

僕は自分(本名である自分)を自分と思ったことは、高校2年生以降あまりない。

つまり、日常的には自分は自分(本名である自分)で他者から扱われることが多いけど、自分の中では「犬飼ユウ」である自分が多く占め、その犬飼ユウと自分(本名である自分)が会話することがとても多かった。

なので僕は、対面で人と喋ることがとても苦手である。(それは話関係ないのでは?←ww)

他人と喋るより、自分内の犬飼ユウらと喋ることが僕は日常的に多いのだ。(そうだったのか・・・。←ww)

なので何だろう・・・、常に自分の中で自分を観察することが多い。

なので、基本的に僕は「無表情」で生きていて、その中では、僕は僕自身と会話していることが多い。(このブログもそれを文章化したようなものだけれど。)

だから、自分の中の一人がひどく死にたい場合でも、また違う自分がそれを冷静に見ていて、そういう時は「何も考えない方がいい」と知っていて、死にたい自分をある程度「制御」出来たりする。(自分を一人にせず、複数の自分で自分を分担する、といった感じ。多重人格とも少し違う気がする。)

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そんな感じで、まあまあ疲れたので、寝ようかな。

あーあ、死ね。←ww

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