「働くということと、幸福ということと、コミュニティーに属することの重要性について。」
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12月5日土曜日。時刻は午前12時。
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以前にも述べた事だけれど、働くことの一番の優位点・メリットは「そのコミュニティーに属する」ということだと、やはり思うし、それこそが「幸福」であったり、また視野の広さを維持出来るものだとやはり感じるし、そういう点でフリーランスとかは難しいなと思う。(もちろん、フリーランスでもよく人と出会ってたりしたりする人はいいと思うが)
コミュニティーの中にいるということは、とてつもない「利益」だと僕は感じるし、だからこそ、如何に自分にとって居心地のいいコミュニティーに自分を居させられるかが、生きる上でのポイントになると僕は思う。
今、僕は親が経営している会社で働かせてもらっているのだが、そこで感じるのは、その会社に属してさえれば、それほど幸不幸に差はないということだ。
具体的に言うと、どのような役職であれ、その結果給料に差があれ、差はない。
これはこの会社に限らず、おそらく他の会社であったり、また僕たちすべてに共通する「幸福論」であると僕は思う。
どういうことかというと、結局、生きている限り、僕たちにそれほど「差はない」ということだ。
例外としては、極度に健康や金銭面が劣っている状況であろう。
ある程度普通に働けている、もしくは働かなくても例えば親のお金であったり、また彼氏彼女のひもであったり、お金や健康に絶望的に困ってはいない限り、どれだけお金持ちであってもあんまり関係ないというのを、今の会社で働いていて感じている。
つまり、会社で働いていれば役職が何であれ、結局みな「同じコミュニティーに属していて、同じ時間を共有している」のだ。
これに、差がない、ということ。
また会社に限らずでいえば、「同じ日本で、同じニュースを僕たちは共有している」、といった感じになる。
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自分の働いている会社の中での例を出していく。
例えば僕の親(父)。
彼は一番、お金をもらっている。
しかし一番責任が重かったり、一番会社を考えなければいけない。
ちなみに父は、もうある意味「あがっている」。
つまり実質的にもう、お金なんて稼ぐ必要はないのだ。
しかし会社が好きで働くのが好きで、また社員のことを考えて、未だ会社を経営している。(色々嘘がまざっています。)
父はめちゃくちゃ今まで働いてきた。
今はそこまでではないが、10年以上前はすごく働いていた。
その結果、5年前にガンを患った。
そして一応手術が成功したが、5年以内に再発する可能性は高く、再発しない可能性は30%ぐらいだった。
一応今は生きているので再発しなかったが、もう死んでいた可能性もある。
つまり、働きすぎた結果、早くに人生を終えてたこともあったのだ。
「長生き」が幸せかどうかその議論は今はしないが、例え社長であっても、それはただ責任とお金が人より多くもらえるだけで、人より負担は増えて、早く死んでしまうこともあるのだ。
一方会社の中では、定年を過ぎて働いてくれている社員も多々いる。
その中でお金に困っているから働いている人はあまりいない。(というかそもそも小さな会社なので、母数が少ないけど)
その人たちと話をしたことがあるのだけれど、働いていた方が身体や頭を動かせて、自分の体力維持や生きるためにはいいのだ、と。
つまり、働くことで、コミュニティーの中にいることで、ほどよい緊張感を保てて日々を生活出来る。
働くなってしまっては自分の生きる範囲が狭くなってしまって、それならば働いていたい、と。
働いている限り、同じ会社という同じコミュニティーにいる限り、社長であれ末端社員であれ、僕はあまり差はないし、幸福度もあまり変わらないと思う。
重要なのは「そこにいるという幸福」、つまり「そのコミュニティーに属していて、ほどよい役割を与えられているという幸福」。
父がガンで早く死んでしまったら、もしかしたら末端社員であれほどよい緊張の中日々仕事をしている人の方が「賢い」というか、「幸福」であった、と僕は思ってしまう。
社長だからといって、幸福なわけではない。
あまり、差がない。(ちなみに父は、それほど散財もしない。というか、祖父もしないので、金使わないつまらない家系だなと思う。←ww。ちなみに僕も今のところそれほど。)
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大切なのは「どのコミュニティーにいたいか」。
「コミュニティー」こそが幸福をもたらす、と、僕は思う。(まあもちろんそれは、一人きりの時間がある程度確保された状況だけれど。しかしずっと独りきりは他者性を大きく損ない、例えると「浦島太郎状態」になると僕は思う。)
「誰かといること」が、僕にとっては幸福だと思う。
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