「僕たちは、「作品」の中でしか生きられないと思う。」
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12月27日日曜日。時刻は午後0時半。
これはあくまで今のところ僕だけの考えかもしれないけれど、おそらくそうでは?と思っている。
僕たちは「作品」の中でしか生きられない。
もしくは、作品を通してでしか言葉を発せれない。
作品というのはいわば、「集合体」であり「刹那」だから。
分かりやすい現物で言えば「写真」が作品らしいと思う。
つまり、流れゆくこの時間の中で一部を切り取り、刹那的に「過去」になったワンシーン及びその集合体を僕は「作品」と呼んでいる。
僕たちは誰も、「時間」というものを止めることが出来ない。
この流れゆく今の中にいて、今にひっついて今を追うように今を引っ張るように僕たちは存在している。
僕たちが知覚する、そのすべてのものを僕たちはひとりひとり頭の中で処理し認識していく。
つまり、例えばテレビに映る番組であり、マス的に消費されたとして、その消費ひとつひとつは僕たちの頭の中で行われていく。
ひとりひとりがひとりひとりの頭の中でそのデータを吸い取り、そのデータをもとにして共感し合っていく。
今を生きる中での刹那のデータ及びその集合体が僕たちの頭の中に入って記憶され、その「群像」をもとにして僕たちは何かを想ったり誰かと共有し合う。
つまり、ある意味、今という時間には「誰もいなくて」、この頭の中のデータ同士で僕たちは繋がっていると言えよう。
誰もこの世界にはいない。
もしくは、この世界で作られた(またその世界はデータ同士、つまり作品同士が生み出した結合作品にすぎないのだけれど)作品中で僕たちは息づいている。(卵が先かニワトリが先か)
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「今」という時間は不思議だなと思う。
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