「誰を信じて生きるか、もしくは何に依って生きるかの話。」
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1月3日日曜日。時刻は午後3時。
タイトルを語る前に、今日はこれまで主に「買い出し」に栄に行ってきた。
こういう長期休暇でないと、そういう時間がないというか、まあ、作ろうと思えばあるんだけれど、普通の平日は主に家と職場、休みの日は家とジムの往復だけで終わるので、やっと行けた。
主に買ったのは日用品の更新。
例えば、10年以上使っていたテンピュールの枕をそろそろ替えようかなと思って、買ってきた。
また、イスクッションとかを買ったり、電動歯ブラシの替えをかったり、また類似品を見に行ったり。
ああいう、電化製品屋に行くと、どんどん自分の欲が溢れ出して、色々買いたくなる。
今の生活に満足しているけど、あれを買ったらもっと「快適」な生活が送れるのではないか、とか。
実際買ったら送れそうだけど、無駄金になることもあり、買い物って難しい。
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それでは、タイトルの話。
これって結構大きいし、僕たちの生きるにすごく関わってくる問題だと思う。
幸不幸も結局、他人との比較で生まれてくるし。
僕たちは何を指針にして生きているか。
僕たちは誰と比較して生きているか。
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比べたらきりがないし、また羨ましいと思っている人だと自分が思っても、実はその人も結構大変な思いをしていたり。
何だろう・・・、結局は自分で勝手に「とある理想」を定めて、そこに向かってずっと「夢見続けている」のが、悪くないのでは?と思う。
ある意味そこには、他者は存在していない。
99。999%の人が否定しても、自分がこうであるという世界を追い求めた方が、僕はいいのではと思う。
また、その「過程」が大事というか。
結局すべて、「過程」にすぎないのだから。
ある意味、「ドン・キホーテ」が正しいのでは?と。(ドン・キホーテ、ちゃんと読んだことないけど。)
「他人の尺度」であったり、「他人の定め」で生きるのは、危ういと思う。
だってそれでは、いつまでたっても、到達出来ないというか、そもそも自分のレールに乗って無いから。
自分のレールに乗っていたら、例え間違っても、修正出来る気がする。(あくまで気がする。←ww)
僕たちの「生」に、ほぼほぼ意味はない。
出来るとしたら「子孫」を残す程度で、またその子孫を残すと言ってもある意味意味がないというか、その子孫にとっては生きる機会を得てラッキー?かもしれないけれど、自分自身は変わらないというか、子供が生まれたとして、僕たちは僕たちであり「ひとり」な存在なのだ。(自分を頼ってくれる他者が存在してくれることで、だいぶ心に余裕が生まれることはあるけれど。ある意味、ペットを飼うのと同じような、たぶん。←ww)
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他人の尺度によって、自分の幸不幸、また喜怒哀楽をコントロールされるのはとても危ういと思う。
「自分を見つめる」
自分の心が、どんな世界を望んでいるか、どんな生活をしたいか、何を欲しがっているか。
それらは何に起因して思っているのか。
そういうことをゆっくりと考えられる環境が、僕にとってはまずは必要だと思う。
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