「何故この部活を始めたか、また何故まだこの部活をやっているかを改め分析することでこの部活のコンセプトイデアを明確にする」
・・・・。
・・・・。
1月9日土曜日。時刻は午前8時過ぎ。
何故この部活を始めたか。
暇だったから、かつ、その時の、そして今現在の自分において、「楽しい事・興味あること・惹かれること」がなくなったから。
30過ぎてある意味、「第2の迷路」に入ったというか、20代までは何か、他人に(それは主に娯楽提供者)楽しい事を与えられて、その玩具に楽しんで、それで満足?出来ていた。
しかし30過ぎてから、生きることに楽しめなくなったというか、自分が「空っぽ」であることにようやく気付いた。
僕は一体、何を求めて生きているのだろう。
僕は一体、これまでそして今後どんな感じで生きて行くのだろう。
自分という存在を例えば、24時間カメラなどで映像で捉えてみるとそれが鮮明になる。
この生き物は何を求めて誰に促されて何を想って何を想わされて生きているのだろう。
急にすべてが、つまらなく思えた。
そんな時偶然、この部活と出会った。(まあ、厳密には違って、新たなアウトプットの方法としてここに行きついたのだけれど。)
その結果この1年で、この部活がそこそこ自分の思う形になってきた。
この部活で僕は、何を求めているのだろう。
この部活を僕は、何に惹かれてまだ続けているのだろう。
そこを明確にすることで、僕がこの部活で生み出される作品で何を求めているかが明確になると思う。
簡潔に言えばそれは、「新たな視点からの世界と僕たち」を知りたい、という欲求であると思う。
それはこの部活に限らず、普遍的な僕たちの欲求であると思う。
この世界がどんな世界で、また僕たち(人類、日本人)がどんなものか知りたい。
この世の中のすべては、それを知るための道具やきっかけに過ぎないと思うし、この部活もまたそうであると思う。
よく分からない、この世界が、そして僕たちが。
だから、コミュニケートの過程で、つまりコミュニケーション本来の「1対1の対話」の中で、僕たちやこの世界を探っていこうというのがこの部活の趣旨、かな。
「対話」「自省」「振り返り」。
今という流れゆく時の中で、「オートメーション」の時の中で、そこに流されていると分からないから、一度「時を止める」。
単純な「好奇心」。
それはテレビのニュース番組を観ているのとほぼ同じような。
・・・・。
・・・・。
「想い」が、知りたい。
またその想いが何故生まれたのか、その想いが生まれたその「世界」を知りたい。
・・・・。
・・・・。
・・・。
「1対1の対話」に限定するのは、今の世の中に溢れる言葉って基本、曖昧というか、誰に対しての言葉であるかが非常にぼやけていて、その言葉の起点や終点が見えづらくなっていて、そうすると自分が曖昧になっていると僕は感じるから。
一人の人間からの一人の人間を見た方がその人を理解しやすいというか、例えばとある男性の息子って、分かりやすいじゃん。
Aという人物をBに語ってもらうことで、相乗効果を生むというか、1がより鮮明になる。(2なる効果。)
それが出来るのが、この部活ではないか。
他者(Aという人)を知りたいし、その他者を知るために、その他者を知る人(Bという人)にAを語ってもらう。
Aという一人の人物を知るためにBという一人の人間にとって一番と言っていい「他者(コミュニティーの中でも最コミュニティー)の存在を借りる。
・・・・。
・・・・。
・・・。
大体ここまでは定まっているのだけれど、あと一歩、いや毎回あと一歩なのだけれど、「説明(≒有意識化。言語化。気づき化)」が足りてないと思う。
それを徐々に、「過程」の中で気づけたらいいと思う。
僕はまだ、未熟というか、「この部活の最奥」を理解出来てない。
そこを知りたくて、僕はやっている気がする。
分からん、けれど・・・。←ww
・・・・。
・・・。
・・・・。
・・・・。