3月6日「自分の故・おばあちゃんよりさくらももことかクレしんの作者のことを思うことが断然僕は多い。」

「自分の故・おばあちゃんよりさくらももことかクレしんの作者のことを思うことが断然僕は多い。」

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3月6日土曜日。時刻は午後8時(もう3月かよ・・・。早いンゴ・・・。)

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タイトルの通りで、これについては2か月ぐらい前に少し述べたけれど。

2年ぐらい前に90近かった自分の祖母が亡くなったんだけど、とても人としていい人で、基本的に僕にも優しくて、まあ、普通と言えば普通の祖母だったんだけど。

ただ、祖母が死んだことに対して特に僕は感情を抱かなくて、むしろ今でも何か1か月ごとに坊さんが来て何かやってて、それに自分も参加しないといけないのがとてもウザく感じるくらいで。

僕はそこら辺、かなり異質というか、あまり「感情」とか「親近性」を感じないのかもしれない。(というかそもそも、「お葬式」という儀式すらあほらしく感じる。またそれ関連で仏教がかなり嫌いになっている。死んだ人に関して各々思えばいいだけで、わざわざ金かけてみんなで悲しみましょうという儀式がかなり気持ち悪くすら感じる。他人の前で悲しんだり泣いたりするのもよく分からん。)

そんなこんなで、おばあちゃんはまあまあ好きだったが、別に亡き後特に僕の頭には浮かばないのだけれど、それより全然さくらももことかクレしんの作者のことがよく思い浮かび、彼ら彼女らに会うことはもう永遠にないんだなあと思うと、結構悲しくなる。(冷たいことを言うと、全然祖母より。)

結局何だろう・・・、僕はすごく表現者の中で「漫画家」というのが好きかもしれない。

漫画家って言わば、僕にとっては芸術家の最終形態とすら思っている。

むしろ、一般的に言われる芸術家(昔で言うとピカソとかゴッホとか。今で言うと現代美術家とか)よりも全然漫画家の方が尊敬しているし、また影響を受けている。

だって芸術って、基本ストーリーがないから。(ここら辺話すと長いので省略)

例えば好きな漫画であれば、あのシーンであったりあのシーンであったり、そのシーンが結構すぐに思う出すことが出来、また自分の思い出とリンクしてよくそのシーンを思いだすことがある。

要は、漫画は、「イメージ(漫画で言うとコマ)が大量に詰め込まれており」、イメージが多いというのが僕の中でかなりアドバンテージになっている。

それはどこか、友人と同じ時を共有している感覚に近いと思う。

あの頃あんなことあったよね、なんて友人と昔のシーンを語ることがあるが、漫画の場合、友人でなくても、漫画家と僕、お互い顔を合わせてなくても友人というか、あの敵は強かったねとか、あの時諦めなくて努力して良かったねとか、あのシーンは辛かったねとか、ようは「共感場面・シーン・コマ」が多いのだ。

なので、自分の祖母にいうのもなんだが、祖母よりも全然、さくらももことかクレしんの作者との方が思い出がある感じ。(と言っても、それほどちびまる子ちゃんは僕は好きではないのだけれど。好きではないけど、思い出が多い。例えばちびまる子ちゃんの漫画の後ろの方に載っている、ちびまる子ちゃんの話ではないさくらももこの実体験の漫画化エピソードとかの方が好き。ちなみにクレしんは結構好き。映画も好き。)

彼ら彼女らが生きていたら、あの話良かったねとか、あの映画よかったよとか、可能性は0に近いけど彼ら彼女らと話す機会もあったかもしれないのに、彼ら彼女らが死んでしまったらもうそれが出来なくて、悲しいなと。

だから、少し暗い話をするとジブリの宮崎さんとかも結構高齢なので、そんなこと考えたり。

自分の心象に溜まっているイメージはたくさんあって、そのイメージの多くは僕の場合漫画が多いから、好きな漫画家がなくなると、彼ら彼女らを思いだした時にもう会えないかと思うと悲しくなる。(さっきから同じ話してるぞ。←ww)

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そんな感じです。

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