3月10日「エヴァから考える物語作品との付き合い方・向き合い方・姿勢について。」

エヴァから考える物語作品との付き合い方・向き合い方・姿勢について。」

3月10日水曜日。時刻は午後7時。

今週、エヴァの最終章が劇場で公開されている。

そして、2週間ぐらい前に述べた通り、見たいけど僕はおそらく見ないし、見たいから3~5年以内に見たいと思う。

以前述べた通り、僕は旧バージョン、つまりテレビ版とそれに伴う旧劇場版は中学2年の時にレンタルビデオ屋で1度見た切り見てないし、また新劇場版4部作についてはまだ1回も見ていない。

見たいけど、見ていない。

それは何故かというと、それが今の僕のエヴァという作品に対しての「姿勢」だから。

それはつまり、作品・物語作品・ストーリー作品とは何かという話になってくる。

ここで言う作品とはすごく大まかで、まあ娯楽的な、僕たちの心を楽しませてくれる創作作品、といったものだ。

例えばドラマであったり映画であったり小説であったり漫画であったり、音楽であったり。

一般的に「クリエイティブ」と言われる作品のことであり、それに対する僕の考え方や姿勢を述べたいと思う。

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というかそもそも、今回のエヴァで改めて感じのは、エヴァというのがすごく、これまでの日本、つまりこの2~30年間?(エヴァのテレビ版がいつ放送されたか調べないと正確に知らん。)の日本をすごく表している、つまり「象徴」しているなと感じた。

またそれ故に、作品というのは「僕たち」を表現していることを再認識させられた。

創作物というのは、創作物ではない。

僕たちの「リアル」があって創作物は生まれるし、また僕たちが気づいていないリアルを浮き彫りにするために創作物はある。

エヴァという作品は、それをすごく表現してくれた、つまり僕たちをすごく表現してくれた作品だなと、ネットのネタバレなしの感想を見ていて感じた。

(話は少し逸れて、またこれは別の機会に詳しく述べたいと思うのだが、僕たちというのはすごく「自慰的な生き物」だと最近よく感じている。基本的にみんな、気持ち良くなりたい。そして、基本的に僕たちは日常的に自慰的生活を行っている。この自慰とはどちらかというと性的な意味合いよりも、精神的な話。自分を満足させるために日々自分を行っているという。それで、世に認められる作品というのは逆に、みんなに自慰させることが出来るものだと感じる。つまり、良作というのは、自分で自慰するのではなく、それを読んだり観てもらう観客に自慰させるものである、と。他の言い方で言えば「共感」とか、何だかよく分からないけれど惹かれる・面白いとか。つまりいい作品、凄い作品というのは自分の自慰に留まらず、お客さんの趣向を読んで、お客さんのツボを突くようにしているのがいい作品であると。名作というのはお客さんに自慰させる作品である、と。これは創作物に限った話ではなく、例えばインフルエンサーであったり、人気俳優や人気芸人であったりも同じことが言える。自分ひとりでその芸を満足する≒自慰するのではなく、客を楽しませる、客に気持ちよくなってもらうことをちゃんと意識している人がプロであり、他人に自慰的にさせるのがプロであると。)

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作品というのは、そういうものなのだ。

つまり、良い作品であればあるほど、自分の心を打つ作品であればあるほど、「作品の本質」「物語作品とは何か」に僕たちは近づける。

それで、それは何かというと、それは「僕たち」であり、それは「僕たちのリアル」であるのだ。

つまり、作品とは、僕たちのためにある。

つまり、作品とは、僕たちを知るため・僕たちのリアルを知るためにある。

それがまあ、僕たちの人生のすべてだから。

つまり、物語作品とはある意味「お金」と同じく、僕たちのリアルを生きる「ツール」でしかない。(そんなこと言ったら、自分以外のすべては「ツール」だけれども。)

物語作品とは自分のリアルを活かすためにあるのであって。

物語作品とは改めて自分のリアルを見つめ直すものであって。

なので、その作品から学び、すでに自分の人生をこういう風にやっていこうと「見つけている」のであれば、作品などあまりいらないのだ。(ここら辺、庵野や富野がよく言うオタクはアニメを観るな現実を生きろとほぼ同等だと思う。)

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アニメに限らず、分かりやすい物語作品で言うと「音楽」があげられる。

大人になって音楽をあまり聴かなくなるのは、音楽がダメになったわけではなく、また自分の感受性が鈍ったのではなく、すでにもう、音楽から「学び終えた」からだ。

物語作品とはとてもいい「教師」であったり、特に口うるさい「親」であったり、また時に愛すべき「恋人」であったり、とても優しい「親友」であったり。

僕たちは多くのことを、リアルな人より物語作品から「学ぶ」んだ。

それをすでに吸収し終えている。

僕たちの子供の頃は「空瓶」であり、何を吸収するかによって自分のその瓶を満たしていく。

つまり、優れた物語作品から僕たちは僕たちの「世界観(≒空瓶)」を構築し、それを「支え」として、そして時にそれを「恐怖」としたり、時に「畏怖」としたり、そういう「心の有り様」を物語作品から学んでいく。

音楽を大人になって聴かなくなるのは、すでに僕たちに音楽から学んだ「レッスン」が染み付いているから。

だからもう、聴く必要がない。

もう聴かないというのが、「正解」なんだ。

例えば大学受験に合格して、それでまだいつまでも予備校に通う必要があるだろうか。

無い。

むしろ先生方も、困るだろう。

ここでやることはもうない。

これから、大学で君を創れ、と。

もちろん、分からなくなったら、いつでも戻ってこい、相談に乗るから。

染み付いて、すでに無意識になってしまっている「レッスン」を、もう一度聴かせてあげよう、と。

物語作品を見ないことはある意味、「正解」なのだ。

すでに一番大切な「リアル」を、生きているのだから。

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そういう意味で、話戻すと、エヴァというのはだから、すごく「これまでの日本を象徴」してるなと思う。

ここ数十年の、ぐずぐずの日本を、ぐずぐずの僕たちを、とても表しているなと思う。

だから、すごく、エヴァは、日本人に刺さると思う。(海外でどう評価されているかはあんまり知らん)

結局まだエヴァを求めている人は、この数十年、「分からなかった人たち」だ。(もちろんそれは、何というだろうか、『それが当たり前』なのだけれど。それは、おそらく、分からない問題だから。いくら考えても無駄というか、答えがない問題だから。だから正解として、それから一時的に離れる、置いておく、しかない。人の本質的な悩みは解けることはない。何故なら人とは、「虚構的生物」だから。例えば親に捨てれらた子が自分は何故捨てられたのか考えても答えが出ないように。人の本質的な悩みに答えなどない。)

エヴァに答えなんてない。

もしくは、答えがないことを示したのがエヴァという物語作品なのかもしれない。

エヴァは迷うことを描いた作品であり、それはその作品の中身だけでなく、ここまで終わるのを引っ張ったというのにも表現されている。(また庵野という人格にも表現されている。)

そういうことに、おそらく僕たちは薄々気づいていたはずだ。

エヴァに答えなど無いと。

エヴァに、「救い」などないと。

僕たちの人生に、「ハッピーエンド」はないと。(居心地のよく温かい中継地点はたくさんあるけれど。)

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物語作品とは、僕たちのリアルと切り離せない。(2度目)

いやむしろ、僕たちのリアルこそ物語作品である、と。

リアルの中に物語作品を見出すことこそ、物語作品が存在する理由である、と。(ここら辺、本当はもっと詳しく説明しないと分からないけれども。)

そういう意味でだから、僕は中学生以来、エヴァを見ることを避けていた。

そこ(エヴァ)に居続けることは出来ないから。

そこよりも何か、いやそこをヒントにして、リアルを見つめてみたいから。

既にもう、レッスンは学んでる。

それをもう一度聴くのではなく、そこから学んだことで、リアルの中の何かに気づいてみたいから。

エヴァの中に何かを探し続けても、自分は何も見つけることが出来ない。

だからある意味それは自分のリアルにとって「無駄」だから、僕はエヴァを避けていた。

作品の中に自分を見出してもいいのだが、作品の中に溺れてはダメだ。

何故なら自分は、リアルを生きている自分なのだから。

作品から学ぶのは全然いいけど、作品に甘えてはダメだ。

母であり、教師であり、恋人であり、親友である物語作品に。

そういう意味でだから、僕は「フィクション」を結構避けているのかもしれない。(まあ、漫画は結構読んでいるのだけれど。←ww)

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でも、もしかしたらと思うのは、こうしてエヴァが終わることで、何か「日本」も、どこか「新しい場所」へ向かうのかもしれないと思った。

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まあ、でも、それは、おそらく、それほどいい場所ではない。

ニュースを見れば分かるように、日本という国は徐々に「衰退」しており、おそらくこれから何十年、昭和の時代のように、というか昭和が結構異常な時代だったのだけれど、経済的に繁栄することは無いだろうと思う。

これからの日本は徐々に衰退していく。

それは、う~ん・・・、もう99.99999999%と言ってもいいのかもしれない。

もう、無いね。

だからそういう日本がどうなっていくのか。

その「衰退」というのは具体的などんな世界なのか。

エヴァで表現された、かなりの「絶望の時代」を終えて、それよりもおそらく暗い未来に向けて、僕たちはどうなっていくのか。

その時代はまた、どう表現されていくのか。

まあ、(笑)、楽しみと言えば、楽しみと言える。(笑)。

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でも何だろう・・・・、僕的に思うのは、これからの絶望のさらに下を行く世界の方が、『世界史』的にはよくある世界だったと思う。

いわば今までの日本の戦後がちょっとした「フィーヴァータイム」であって、今までが異常であり、その異常からの急落(もしくはその異常の裏側・異常の本質)を表現したのが「エヴァ」であり、これからの方が世界史的には「日常」であるかと思われる。

だって、総中流社会なんて、あり得なくね?って思うし、終身雇用とか、神話の世界の話みたいじゃん。

今までの世界の歴史として、「残酷」が多いのが普通だし、「不平等」が多いのが普通だし、「貧しい」が多いのが普通だし。(そう感じてしまうって、だいぶ悟り世代なのか・・・。まあ僕は悟り世代よりは年齢たぶん上だけど。)

これからの日本を上手く表現してくれる物語作品とは、一体どんな作品なのだろうか。

それが作れるのはおそらく、エヴァ世代ではないだろう。

僕たちはリアルに潜り続ける。

リアルはリアルでしかない。

また、物語作品は物語作品でしかない。

僕たちはただ、そこを行ったり来たりしているだけだ。

僕たちは、ある意味、どちらにも「所属」していない。

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