3月11日「学生から社会へ(≒働き始める)の移行する時の罠について。」

「学生から社会へ(≒働き始める)の移行する時の罠について。」

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3月11日金曜日。時刻は午後7時。

以前から述べている通り、僕たちの最大の敵は「社会」であり、また最大の仲間は「社会」であると以前から述べた。

社会(≒つまり他者。自分以外の人たち)に助けられ、社会に生かされている私たちにとって、社会からは逃げられないのである。(離れたり、また結構距離を置くことなどは出来る。例えば田舎に行くとか。また引き籠るとか。それにしても全く社会から途絶えることは出来ない。死という選択以外は。僕たちが心を持ち思考する以上、その思考空間に「誰か」が存在し続けるから。社会を生きるとはつまり、他者に影響される、ということ。)

だからある意味、生きるとは社会とどう向き合っていくか・どう付き合っていくかになってくると思う。

僕たちは「自慰的な生き物」だ。

それがとても象徴しているのは「学生」という身分の人たちだろう。

彼らは自分たちが「最強」だと思っている。(そうすることで空っぽな自己を必死に保とうとしている。すごくだから、人の精神ってよく作られているよね。最強だと思わないと死んでしまうから。)

それはまだ、彼らがあまり社会に「所属」していないから。

つまり、すごく自分の「自慰」に閉じこもっている。

社会を知らないから自分の自慰に酔うしかない。

だから学生というのは、人狼で言うと「狂人」であり続ける。

まだ自分が(社会的に)ないから、自分の「空っぽさ」に気づけていないから、他人を馬鹿にすることで今ここに自分があることを何とか証明しようとしたりする。

そこが彼らの悲しさであり、また愛らしさであるのだが。

彼らはまだ、「自分という機会」にさえ触れられていない。

「まだ自分ですらない」のだ。

他人を馬鹿にしたりすることで、自分と向き合うことを逃れ、出来るだけ自分に触れないようにする。

こわいから。

そこに触れようとすると、空っぽであり、どうしようもなくなってしまうから。

大抵の学生は何も無い。

そこで悲劇的なのは、その何も無いということすら気づいていないということだ。

存在すらしていなく、またそれすらも気づいていない。

つまり学生というのは、社会という「鏡」がまだ与えられてないから、自分の姿を見れていない。(つまりまあ、すごく「無」を表現しているとも言えるが)

ある意味「目玉おやじ以下」、思考が備わっていなくて、聴覚や視覚だけで生きている感じ。

自分に触れられていないというのは、ある方向から見たら結構「不幸」のように思う。

狂人になるしかなく、「道化」になるしかなく、またそれをある意味「誇り」にさえ思っているのだから。(そう思わないと自己を保てない。)

ずっと「自慰」ばかりしていて、それが世界のすべてだと思っている。

悲しい生き物と言えばそれまでだけど、まあ、それが学生の「特権」とも言える。

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なので、学生が社会へ出ていく時、社会人になっていく時、おそらく一番感じるのが「自己の否定」であろうと思われる。

今までの自分は何だったのか。

無かったのだから、よく考えればそれは可笑しな話だけれど。

自慰することで生まれた「無なる自分」を自分と思っていて、それが否定されたと「錯覚」さえしてしまう。

社会に触れることで、人はやっと人になっていく。

それは「大人」と呼ぶには、少し「浅い」なと思う。(というかもう、大人という言葉すら色々ダサい。)

誰かに否定されることで、社会的に自分を知ることで、人はやっと人になっていく。

ただ、ここでもまた、「問題」が色々生じる。

社会に出て、ある程度働き続けると、その社会側に対して何らかの「違和感」を感じながらも、そこから抜け出せないことだ。

人が人として生きるには、社会の中にいなければいけない。

しかし社会の中で生きそれを一番に思い生きてしまうと、そうせざるを得ないのだが、そうすると、「自分を置いてけぼり」にしてしまいがちなのだ。(社会のトラップ、社会の罠)

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学生はそもそも人ではない。

しかし社会的人に成った途端、それが「自分」よりも優先されてしまっている自分がいる。(辞めたいと思っても会社を辞めなかったり。社会的自分が個人的自分を殺してしまう現象。)

かと言ってあの頃の学生に戻るのは違う。

じゃあ、どう選択していくべきか。

これを考えられるようになったら、ちょっとした「大人」であると僕は感じる。

働いている人が大人ではなく、働いている自分に違和感を感じ、じゃあどうすべきか、そして判断・行動・納得出来る人がまあ、大人って言葉好きではないけれど、僕にとって興味ある人だと思う。

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社会に混じりながら、社会的自分と個人的自分を兼ね備えつつ、新たな自分像を探っていく。

だから、大人というのは、そういう「二つの自分」を持つことが、大人ではないかと思う。

個人的自分とは、社会的自分が生まれることで初めて生まれる自分。

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ある意味だから大人というのは、子供(学生)と大人を行ったり来たり出来る人がそういう人ではないかと思う。

社会の中にいても、自分が消えてしまう。

しかし自分一人になっても、自分は消えてしまう。

難しい所である。

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