3月16日「自分が何をやるかということ。(2021年3月16日ヴァージョン)」

「自分が何をやるかということ。(2021年3月16日ヴァージョン)」

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3月16日火曜日。時刻は午後9時。

クス、クスクス。←ww

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基本的に、「すべては虚無」である。

また、僕は「生=死」と考えるし、また「リアルはどこまでいってもリアル」とも述べた。(またこれは述べてないのだけれど、リアルがそうが故に、「インターネットもまたどこまでいってもインターネット(≒虚無的世界)」だとも思う)

そんなリアルで、そんな生の、死の中で、僕は何を求めて生きるのか。

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以前それらについて、何と述べただろうか。

その問いについて、今僕のキーとなっているのがやはり、「部活」であると思う。

部活は、そんな僕にとって唯一の「何か」である。

その何かはそこに、生に、死に、虚無に、何を見出すのか。

分からない。←ww

分からないけど、い・・・、分からないけど、部活は、そこに、『跡を残そうとする』のは確かである。

「何かを残す」ことが虚無的な生の中で唯一出来る、何かであるように。

その残すとは、無なのか有なのか。

それは、「無的な有」であると僕は考えている。

例えば、美しい絵画を見た時に、人は思考が止まり、その絵に心奪われ、ある意味「自分を失くして」しまう。

「静止」

「生死」

精子」(これも?←ww)

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時が止まる。

生きるのが一度止まってしまう。

生の中に、無という有を付与する。

何かに心奪われて、「時が止まる」状態が僕は好きだ。

その状態は果たして、生きているのか死んでいるのか。

ある意味「極限的熱中」

いや、熱中ではないかもしれない。

「意識」、「有意識」ではなく、また無意識でもなく、その間のような感じだから。

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「無的な有」。

何かすごく心惹かれた時に自分が本能的に止まる、言葉を失ってしまう現象。

そういう瞬間を、そういう瞬間が、僕は気になるし、またそういう瞬間とは何か。

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残すことはしたい、生きているならば。

しかし、何を残す、どう残す。

その残しに、「意味」はあるのだろうか、また「意味」を持たせるべきなのか。

僕が唯一興味があるもの。

それは「止まる状態」。

現実的話で例を出すならば、僕は射精し終わった後の、いわゆる「賢者タイム」というのが好きだ。

あの時に何か僕たちは、「探そうとする」。

性をある意味終えて(性は分からない「残す」本能。子供とかのね。)、性がなくなった自分はそこで何を想う。

それは、「無」なのか。

その無に、どうやって触れられるというのか。

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絵画がヒント。

また、僕はそれほど、「言葉」を信用していないし、可能であるならば、言葉がない世界を残してみたい。(それが以前から話している部活の「イメージの段階」なのだけれど。ただまあ、それは一定の言葉があって始めて存在出来る世界なのだけれど。)

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言葉がない、言葉を失ってしまうシーンに、僕は立ち合いたいし、そこをある意味「居場所」にしたい。

何故なら、そこが唯一、というか一番、僕が今生きていて一番惹かれるところだから。

生きていて、ある意味死んでいる。

生に疑問を抱き、かと言って勝手に心臓はまだ動いている。

生でも、死でもなく。

「虚構」。

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虚構とは、僕としては「マイナスなイメージ」では全くない。

それは「0」であり、0であることは何かが始まることが出来るしまた終わることも出来るから。(日本で例えると政治的には天皇かなあ?日本のネットだと昔の2ch?みたいな、かなあ・・・。分からんけど。)(今読み返してるのだけれど、「0」ともまた違うかも。0の繰り返し、的な感じ?)

虚構はある意味始まりであり、終わりだ。

虚構は、無的な有、といった感じだ。

究極の空瓶、みたいな・・・・。

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跡を、残す。

無的な有なる、跡を残す。

それに惹かれ、溺れ、酔い、忘れ、眠る・・・。

「何も無い居場所」

そんなものを、暇な時に、作りたいなあ、とか(とか?←ww)

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眠い。

眠いから、もう寝ます。

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