「本質的問題について。~それがおそらく、僕がどう生きるかであったり、これから何を求めて生きていくかのことになる~」
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4月23日金曜日。時刻は午後10時。
ふう、疲れた・・・・。
今週もお疲れさまでした。
もう、ほぼ毎週、こうしたこれからの自分であったり、また今の自分に対する迷いであったり、今後の自分の人生方針について述べているが。
本質的に僕は、何をしたいのか。
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また、その答えに、どうすれば触れられるのか。
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言ってしまえばそれは、「自分の中」にすでにあるものであって、だから、後はそれをどう見つけるか・どう掘るか・どう気づいていくかの話になる。
すべてのことはもう、自分内にある。
それは、価値であったり美しさであったり求めるものであったり。
それに気づくために、僕たちはある意味遠回りをしていく。
日常を離れ、遠くに行ったり、また何かを学んだり、また社会に出て働いたり。
それらは、内なるものを探すためである。
しかし・・・。
それに気づいたとしても、ある意味、それだけでは完結しない。
つまり、自分にとって自分の答えとはすでに自分の内側にあるのだけれど、それとはつまり、『自分だけでは触れられない』のだ。(なんか話的に、エヴァっぽい・・・。)
他者が、必要なのである。
自分の内側、だとしても。
自分ひとりでは、自分の内面に、触れていくことが出来ないと、僕は思う。
だから、「コミュニティー」が必要であると思うし、僕にとって僕が求めるそのコミュニティーは、この1年構築してきた「部活」の中が一番近しいのではないか、と。
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だから、ある意味、僕の今の日常の中で、この「部活」を最優先にしている状況は、自分が望んでいるともいえる。
この「部活」が始まらないと、僕が始まらないような。(まだそれほど始まっていない)
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そのための「準備」を今の僕はゆっくりとしていて、それは最長「50年」にも及ぶと思う。
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だから、出来るだけ、「部活」が始まってほしいと思うけど、だからと言って今は、別に一日何十時間も部活に費やしても、成果は出ないから、日々ちょびちょびと、やっている。
「来る日」が来るまである意味どっしりと構えて、またゆっくりと静観して。
その時が来るときそれに集中出来るよう、それ以外のことをこなしたり。
「部活」がはやり、今の僕にとってキーであることは確実である。
何故なら、この部活が、今僕にとって一番望ましいコミュニティーであり、またそのコミュニティーがおそらく、今の僕にとって、一番「自分の内面」、つまり「自分の本質」に触れられることが出来るから。
ある意味、すごく「自分本位」であるが、まあ、自分が作り自分が管理していているのだから、まあ、いいのではないか。
本質的な問題。
自分がどこにいるか。
その問いは、他者と共に近くに触れていける。
僕にとって他者との距離感が、一番心地よく感じるのは、今のところ、この部活ではないだろうか。
直接的な人間であったり、現実的な人間に、僕はそれほど惹かれない。
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何故なら、それは人を・・・、人を本質的に表すことが出来ないのではと思っているからだ。
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結局僕は、「イメージ」に依存している。
それは別に僕に限らず、例えば世界中多くの人が「モナリザ」の絵に惹かれるように。
残るのは結局、イメージ(心象)であり、現実的・直接的人ではなく、作品的な、人であると、僕は思う、ねむい。
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寝る。
・・・・・。