「認識や想うということについての僕の見解。数字。」
基本的にそれは、美しいもの(惹かれるもの・強制的に興味を持たざるをえないもの)でしか、互換?されないというか、変換されないというか、表現、認識、出来ないと思う。
認識や想い。
つまり、人の脳の、「信号」のようなものを、僕は結構興味を持っていて。
Aという想いや、Aという認識が自分の中で発生するためには、そのAの前に自分の中で信号が動く。
Bというものを見る→脳や心がそれに反応して、信号が駆け巡る。→Aという認識や想いが発生する。
つまり、BをAとしてどう処理したか、自分の中の処理施設というか、変換器というか、ろ過装置というか・・・。
その役割を担っているのが、自分の中の価値観、特にそれは「美しさをもとにした価値観」である。
その美しさ(惹かれるもの・本能的に興味を持たざるを得ないもの。サガ的なもの)のランキングとして、以前確か述べたけれど、1位は数字で2位が言葉で3位が女体であった気がする。(隠れ1位とかも確かあったと思う。数か月ぐらい前に書いた。)
何故数字が強いか。
というか、やはり、その処理速度が速いのが、道具として、数字が最強なんだよね。
ある意味数字は、すべてのものを高速で置き換えてくれるというか、数字の代表例としてお金であったり、時間であったりがあったり。
Bというものがあって、それはそのBのカテゴリーの中で例えば「3番目」に好きであったり、「2年前に」それと出会ったであったり、Bが好きだからそれに対して「数万円」自分のお金を注ぎ込み、だから好き(A)という想いや認識が生まれる。
だから、美しさの中で数字が1位より、すべて想いや認識は基本、まずは数字によってそれが形成されている。
というより、分かりやすく言うと、一番根拠に近いとしてシンプルに使えるのが、数字という道具である、と思う。
シンプルというのが大事で、結局僕たちの想いや認識は無限であり、また膨大過ぎるものであると思われる。
その無限であり膨大であるけれど、それを限定し、割らないと、それを認識できない。(個性とかも、そうじゃん。誰かと違うから、自分というのがある。「差」というのが、オリジナリティを生む。)
その、物事を分けるのに一番便利な道具が、数字であり、まただから、数字が一番美しく、また僕たちが想いや認識を生むために日々使っており、またそれにとても依存していると言える。
曖昧である想いや認識という、しかし僕たちのアイデンティティーのすべてであり、そこに僕たちがいる根拠になっているものを、実は作っているのは美しいものであり、その美しいもので一番なのが数字という話。
この世のすべてのものを、1~9という9このもので分別し、割り、識別する。(ちなみに、僕の中では0は数字と思っていない。0というのはとても厄介で、基本的にあまり考えない方がいいものだと思っている。)
すごくシンプルで、美しいなと思う。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・。
5月20日木曜日。時刻は午前7時。