「虚無とは何か」
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6月2日水曜日。時刻は午前8時。
ここ最近、もしくは以前から、部活の本質は虚無であると述べているけれど、その虚無とは何か、それは以前すでに述べたことかもしれないけれど、確認の意味も込めて、というか、以前書いたこと忘れてるから違うこと言うかもしれないけれど、書いていく。
虚無とは何か。
それは僕たちの本質だと僕は思うし、人の一生とか、命とかの本質だと思う。
つまり、何も意味はない、もしくはすべてに意味があるから、すべては無である、という。
だから、僕的に、虚無というのは否定でもなく肯定でもなく、むしろどちらにでもなる、どちらも有する、プラスにもマイナスにもなりうるもの、というような感じ。
マラソンで例えると、スタート地点でもあり、ゴール地点でもあり。
今の地点から走って、スタートしてもいいけど、結局ここに戻ってくるよね、的な。
例えば、山登りとか、平地からスタートして、山登って、結局平地に帰ってくるじゃん。
山登りに興味がない人は、そんなん意味なくね?って思ったり。
つまり、人が何かをDOする時、それはその人にとってはやりたいことであったり意味があることかもしれないけれど、他人から見たら、もしくはとても俯瞰的立ち位置、つまり神目線から見たら、別に意味がない、もしくは興味がないことだよね、って。
つまり、人がその命で何をやるかとか、生きることって、スタートして、ゴールして、そしてスタートしての、ずっと繰り返しで、他人から、また神目線から見れば、別にどうでもいいことなのだよ。
何をやろうが、どう生きようが、すべては自分の納得の範囲であり、しかしそれも、他人から見ればどうでもいい。
すべては虚無から始まって、そこから何か、生きるために意味や意義を見出そうとする。
別にそれは、否定しないというか、勝手にやって、的な。(人の邪魔をしない限り)
何もないところから、すべては始まる。
だから、虚無というのは、数字的に言うと「0」ではなく、0近辺の、時に4になったり、時に2になったり、そして時にー10になったり、時にー5億になったり、そういう0を基準にして揺れ動くもの、という感じ。
つまり、人の幸せに似ている。
今日は幸せ、今日は不幸せ。
美味しいものを食べたら幸せ。
親しい人が亡くなったら不幸せ。
しかしそれも、寝ている時には実質0というか、その想いを忘れてしまって、そしてまた明日が始まり、リセットされて今日の自分を生きる。
明日に持ち越す人はほぼ出来なくて、起きた途端、自分を思い出す、引き出す。
RPGの勇者みたいにレベルを上げ続けることは出来なくて、日々僕たちのレベルはリセットされていく。
だから、あんまり、差はない。
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何故、この部活の本質は虚無なのか。
何故、この部活は人の本質に触れるのか。
それは、この部活の特徴として、伝える人を絞る、というのがある。
ここが、この部活のポイントであり、ここ故にこの部活は人の本質に触れる。
自分を語るとき、不特定多数の誰かに向けて語るのではなく、基本的に、一人に対して語る。
不特定多数に向けて語る自分というのは、結構「嘘」というか、それはおそらく、語る自分自身でも気づいている。
人の本質が虚無である限り、人一人というのはとてもしょうもなく、とても中身がなく、自分にとって自分、いや自分にとっての自分すら、その存在はとても「透明なようなもの(≒虚無的)」なものであると気づく。
群れることで、集団の中にいることで、共通の話題に安心し、何とか自我を保っているが、そんな社会的共通認識を取り除いた時、人は裸になり、また虚無的になる。
自分ひとりというのは結局、空っぽであり、とても意味がないものと知る・認める。
そういう認識を持って初めて、この部活で生まれるものは生まれる。
つまり、すごく自分に正直に、自分という存在の虚無さを認め、そこから自分とは何かであったり、自分と社会との関係性、そして他者との関係性により気づく自分という存在を探っていく。
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書いてて途中で、よくわからなくなった。←ww
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まあ、そんな感じで、虚無は別に否定でもなく、人の本質であり、それが人を知り己を知る大一歩だよ、ということ。
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