6月2日「表現とは何か。言語(言葉)とは何か。」

「表現とは何か。言語(言葉)とは何か。」

今日、よく書くな・・・。

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6月2日水曜日。時刻は午後3時。

表現や言語(言葉)を語るとき、まず注視すべき点はそれがどこの「空間」か、もしくはどことで区切っているか、誰向けに対しての表現・言葉であるか、という点だと僕は思っている。

分かりやすい感じだと、キューブ(立方体空間)を思い浮かべて欲しい。

例えば、おそらくこれを読んでくれている人は日本人であり、また僕も日本人であり、こうして日本語で一定の読者と筆者(僕)とのコミュニケーションが成立している。

それはつまり、日本語を理解できない人はそのキューブ(日本語が理解できる空間。)から除外されており、日本語を理解できる人たちでのみ、つまりキューブ内でのみ、そのコミュニケーションが成立している。

表現とは言語(言葉)とはつまり、それによってまず「区切り」を設けて、理解できる人と理解できない人を分ける性質がある。

表現とは言語(言葉)とはつまり、「分断的性質」から、すべては始まっている、と考えてもらってもいい。

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先ほどの例で、日本語を理解出来ている人と理解できていない人という分かりやすい区切りで説明したが、実際の所、日本語を理解出来ている人中でかなり、そこに区切りや分断が生まれている。

つまり、例え日本語が理解出来て、その日本語を読めたとしても、その表現や言葉(言語)を理解できるとはまた別の話であり、その日本語が理解できるという区切り中でさらにAという表現は理解できない、理解できるという分断・差異が生まれてくる。

それを理解できるのはその言葉が理解できるかどうかというよりも、その人の本質や人生観・考え方の違いであったり、つまり人の性質によるところが大きい。

もしくはまた、表現する側が閉じている、つまり伝える相手に伝わるように伝える力が不足している、という感じ。

お笑いの話で例える。

お笑いの手法、今までのお笑いのはやりすたりを見てきて、お笑いの中で最強と言えるのは僕は「モノマネ」(もしくはあるある)であると思う。

というか、ほぼお笑いの中での実力者がほぼ確実に、モノマネの力があるし、一定の期間、自身のモノマネの力を利用して今の地位にいることが多い。

人を笑わせる時、それを分かってもらう時、例えば「コント」は、遠い。

どちらかというとやはり「コント」よりも「漫才」の方が、近い、つまり観客に寄り添っていると言えると思う。(キングオブコントよりM1の方が圧倒的人気のように)

誰かを笑わすとき、自分がこれは面白いと思ってやっても、あまり意味がなく、どうしたらちゃんと観客に受けるか、つまり「笑いの伝わりやすさ」を意識しないといけない。

先ほどの話に関連付けて言うと、コントの場合「分断」が大きく行われており、「モノマネ」の場合、分断があまり行われず、広く、大勢の人に理解してもらえるという話。

伝えるためには、どの程度、その表現や言葉が分断を生むか、自分はどの程度の分断を想起してその表現をしようとしているのか、当たり前かもしれないが考えないといけない。

例えば文章表現の場合、「詩」というのはだから、とても分断が強い。

自分の中ではその表現はとても美しく、素晴らしいものと思っても、なかなか伝わらない。

しかしその詩を、「いいリズム」と共に奏でると、とてもいい曲になり、『意味はよくわからないけれど』、多くの聴く人に共感してもらえたりする。

つまり、サウンドというのは、分断が薄く、伝わりやすかったり。

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伝えるためには、その表現がどの程度の大きさの「キューブ(表現理解空間)」を生んでいるのか、ある程度想起してやらないといけない。

狭いキューブ、さっきの話で言うと詩は、理解できる人がそのキューブに入りづらく、狭い。

理解して欲しいならば、それ相当にキューブを広くしないといけない。

自分の表現が何のためにやっているのか。

理解されたいが第一なのか、自分消化が第一なのか、その辺りを考えないと、表現というのは難しい。

理解されたいならば、理解されることをまず、重要視しないといけない。

例えばこれは結局、コミュニケーションと同じであると思う。

人と話すとき、当たり前だがその人の顔を見て、その人に伝わるようコミュニケーションする。

表現も同じである。

背中を向けていては、当たり前だが、伝わらない、伝える気がないと相手に捉えられてしまう。

伝えるためなら、相手が何を知りたいか、相手が何を求めているか、そこから始めないといけない。

自分本位では、表現は中々成立しない。

自分が表現したいことより、相手が何を表現して欲しいか(自分に)、そこを考えないといけないという、ある意味表現の矛盾や錯覚がそこにある。(対面のコミュニケーションではそれが当たり前なのに、気づけないのが難しいところ)

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そんな感じである。

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