6月17日「時間について。刹那について。とても重要な文章です。」

「時間について。」

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6月17日木曜日。時刻は午後11時。

これ確か、1か月くらい前に語ったことの続き・応用っぽい話になるけれど。

僕は、この世で最強なものは「数字」であると思っているし、またその中で数字界最強は何かを言われたら「時間」であると、以前述べた。

基本的にこの考えは変わってないし、たぶん今後も僕の中でこれは変わらないだろう。

この世の中で、人の一生の中で、また人類の中で、「時間」こそ一番興味深いものであり、一番美しいものであり、一番激しいものであり、一番儚いものであり、一番醜いものであり、一番「意味がある」そして「意味がない」ものであると思っている。

時間とは何か。

それを語るのは、ちょっと今回は止めておいて。

基本的に時間とは人に対して最強であり、ぶっちゃけどうすることも出来ないというか、唯一対抗?出来る手段として「時を止める」しかない。

その時を止める手段として2つある。

その一つがご存じ、「命を止める」ことである。

これがある意味、人のすべてを実際象徴しているところである。

命が始まり、命終わりて人も終わりて時間とも別れる。

生まれて人は時間と強制的に生きなくてはならず、死ぬときにようやく離れられるというか・・・。

まあ、死んだ以後は僕は知らないので、死んだ以後人が時間と過ごすのかどうか、知らないが。

と言った感じで、時を止める・時を離れる手段の一般的?としてこうした「命を終える」があるが、それじゃあ、残り一つは?

それは、生きている時にも出来るのか?

その答えとして、出来るけれど、出来ないというか・・・

実際、命を止める以外ないのだけれど、唯一生きている時出来るとしたら、それはつまり、「刹那的」である。

つまり、一瞬の中にすべてを詰め込んで、そしてまた時を動かす。

今を凝縮し、そしてそれを未来に持ち越さず、切り離し、過去に置いていく。

その刹那の瞬間だけ、僕たちは時を止めている・時から離れている、と言ってもいいのではないだろうか。

この「刹那」に該当するのは結構ある。

というか、結構、僕たちはこの刹那を行っている。

というか、僕たちの生きるというは実際、とある見方から見れば、この刹那の集合に過ぎないのかもしれない。

今を生きながら、しかし今から切り離し、今のすべてから自分を遠ざけ。

なので、刹那というはやはり、「孤独」でなければいけない。

一人になった時、もしくは自分の認識からすら自分を切り離した時、刹那(≒時間から切り離された時)は生まれる。

刹那とはつまり、ケ(日常)ではなくハレ(非日常)。

現実とは、現実ではなく。

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誰しもがおそらく、「切り離される(日常という常に時間と共に生きるのから離れて、非日常、つまり日常を俯瞰的、非日常的に見れる立場に立つこと)」ことを望んでいる。

何故なら僕たちはどうしても、時間に「従属的」だから。

時間的奴隷生物。

それが、人である。

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時間と共に生きている限り、そこに人の本質、つまり人の正体、人ならざるものはないと思う。(無くていいのだが。←ww)

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例えば、文学なり漫画なり、そうした「自己表現」というのも、そういう「刹那的行動」であると思っている。

だから僕たちは、そうした「作品」というのが好きなんだと思う。

つまり、「ストーリー」こそ「刹那的なる人」を凝縮したものであり、そこに、人の本質がやはり表すことが出来るのだろう。

またそこでしか、「切り離された人」を見ることが、僕たちは出来ないのだから。

ああ・・・。

今回の文章、自分の考えをまとめ中で、ベスト5ぐらいに入るぐらい、とても重要な自分の考えだと思う。

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