「続・続・続・続・続、働く意味について」
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7月18日日曜日。時刻は午後2時。
もう何回もしているこのトピックスについての議論。
今週のまとめとして、「社会参加+or≒タスクをこなすことでの処理」みたいなことを述べた。
その説明の追加というか、社会参加というトピックスについての更なる追加というか。
その、社会に参加しているかどうか・・。
その辺りの判断、その辺りの「感覚」っていうのはつまり、「時間」から形成されるとやはり感じる。
つまり、仕事の中身どうこうよりも、その時間、自分ひとりがやるのではなく、社会にある意味「与える」というか、捧げることで、代わりに社会を知れるというか・・・。
例えば、学校に行ってないゆたぽんという子供ユーチューバーがいたと思う。
彼に対して賛否両論あって、まあそれについてはどうでもいいのだけれど。
その、学校にしても会社とどこか似ていて。
そこで何が学べるかどうか、その学校の中身どうこうよりも、その学校にいた、学校という空間に時間を捧げた、というのが、何か価値というか、そこが、将来的・今現在進行的に自分に価値を与えると思う。
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その価値について、役に立つとかお金が稼げるとはまた別問題で。
どちらかというと人を知れる・社会を知れるというか、「俯瞰的価値」を手に入れることが、社会や学校に属するということの意味だと思う。
「サピエンス全史」という本があって、その本は読んでないけどその本の中身をテレビやYOUTUBEで誰かが喋っていたのを見たのだけれど、会社とか学校とはそもそも存在しておらず、「フィクション」であると。
人の先祖はホモサピエンスだったっぽいのだけれど、ホモサピエンスって腕力的には他の人類に比べて弱くて、じゃあホモサピエンスの何が強かったかというとフィクションを信じられる力であったりする。
その「フィクションという虚構」。
その虚構の内にいるか、外にいるか、もしくは内と外二つとも行ったり来たりしていて、両者もしっているか。
その辺りが、人の価値観を左右していくと思う。
僕は常に物事を「ボックス的」「立方体的」「キューブ的」に考えて、自分という存在を一つのボックスに生かせるのではなく、複数のボックスで生かした方が「ユニーク」であると僕は感じる。
つまり、自分の中に何か才があったり、オリジナリティーがあるのではなく、自分の属するキューブの中に才であったり特殊であったり「異なるもの」があり、自分というのはあくまでそれに影響される集合(≒ボックス)の中の一つに過ぎない、と。
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ボックス≒会社≒学校≒フィクション。
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つまり僕は一定の時間を会社に無駄に捧げることで、そのボックスに日々入り、またそのボックスを行ったり来たりすることで、ボックス間の差異を日々感じ取り、それが自分にとっては「良いバランス」≒「上手く思考を俯瞰化出来ている」のだと思う。
今日の内容、すごく自分にとっていいこと書いているぜ。←ww
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