11月13日「あ」

自分の部屋というのは、「死」にまみれていて、だからこそ、自分はここが一番落ち着いて、だからこそ、外の世界はどこであろうと違う気がして、だけど、生きているという矛盾な自分は、自分の部屋(≒死)以外の世界(≒外の世界。生)を求めているんだなあと、今寝ようと目を閉じていた時に思った。

11月13日日曜日。時刻は午後9時。

こうして、自分の思いを吐き出せるのは単純に気持ちいい。

というか、この1年、何かまともにこのブログを書けていなかったのは何故だろう。

おそらくだが、それは自分のアウトプットをこのブログ以外で置いていたからだろうと思う。

誰も見ないこのブログに愚痴愚痴とゴミみたいな文章を書いていても無駄で、だからこそここ数年は違う形のアウトプットを模索したのだけれど、そのどれもが結果失敗に終わり、自分のアウトプットが行き詰った結果、一番楽にアウトプット出来るここに戻ってきた、という感じだと思う。

悪くないというか、単純に吐き出せて楽。

自分の思いを吐き出せると、生きているって感じがする。

文章最初の方のことに話題を戻すと、そうだったと改めて感じる。

基本的に、自分が共感?出来るのは「死の感覚」だなと思う。

つまり未来とか希望とかではなく、どちらかというと過去であったり非希望(絶望?絶望というより虚ろ感、空っぽ感に近い)が多く散らばっている。

しかしそれらの感覚は、共感されにくいというか、どちらかというと少数派。

何故なら僕たちは生きているのだから。

生きている自分たちに対して、それっておかしいよねって思ってしまうと、動けなくなるというか、実際の所、生きている人にとって、死んでいる側の人たちは見えてないし、ぶっちゃけると見なくていいとさえ僕は思っている。

生きている人、希望を持って生きている人は、暗い人、希望を持って生きれない人を無視した方がいいと思うし、変に見ないで欲しいとさえ思ってしまう。

何の話をしていたっけ(笑)。

自分の部屋というのは、すごく死で充満しているよなあと、おそらく今日見た映画によってそれが鮮明に自分は感じられているのだと思う。

そういうことを知れたから、今日、映画を見れてよかった。

もっと、僕は自分を俯瞰、客観的に見てみたい。

基本的に、また今もだけど、僕は長いこと自分は死に近い場所で寝ていることを望んでいたのだと思う。

いや、違うか・・・。

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自分が死にまみれた状態に気づかないまま、何かしらのアウトプットをしようとして、それで全部失敗して、もっと自分を知らなきゃと改めて気づいて、ここ最近の僕は自分の部屋から離れようとしている、のだと思う。

4,5年くらい前に、働き始めて数年たって、自分はリアルには自分はいないと思って、非リアルにおいて何かしらの表現を模索して、しかしそれが全部失敗して、もう一度自分を見つめ直すために、ここ数か月はリアルに自分を多く置こうとしているのだと思う。

リアル(≒生きることを肯定しないといけない、主に外の世界)に自分はいないのはそうなのだけれど、だからと言って自分の輪郭を知れるのはリアルにおいて?

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死の世界に浸りがちな自分をより明確にするため、リアル(日の当たる場所)に一度自分を晒す感じ。

どんな感じに自分が死の世界に浸っているのか。

真っ暗な世界に自分をずっと置いていたら、自分がどれだけ暗いのかさえ分からない。

(というか、見えないだろう、)

外の世界の明るさを感じて、また死の世界に戻ってくることで、どれだけ暗いのか知る。

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死体である自分を、もっと知りたいのか?

死体とは何か。

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・・・・・。

疲れた。

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