「昨日の時間と空間のお話についての続き」。
・・・・。
12月25日金曜日。時刻は午後6時。
と言ってもおそらく、この話も半年ぐらい前にしたことと同じだろうけど。
僕はそんなに頭良くないから、書いたらそれでスッキリしちゃって、忘れちゃうから。←ww
だからまたこうして確認のために、また書くのです。
・・・・。
・・・・。
「時間と空間」。
それ故にやはり僕たちが一番平等と言えるのは、「今」という時間軸の中でしか生きられないことだと思う。
この点において、他に比するものがないほど、僕たちは平等だと言えよう。
国籍、生まれ、親ガチャ、色々なバックグラウンドを僕たちは持っていてそれは不平等だと言えるが、こうしてここにいて、どうしようもなくただ今を消費している点で、非常に平等だと僕は思う。
差がない。
生きている人間は、差がない、もしくは、今という時間軸から「逃げられない」。
逃げられる唯一の方法は「死ぬだけ」であり、そういう意味で死はある意味救いであるしまた、何らかの新たな「答え」が用意されている次段階であると言えよう。(口調気持ち悪っ。←ww)
・・・・。
今をどう生きるか。(≒僕たちはどう生きるか)
逆に考えればそれは、今から逃れられない憐れな僕たちを示唆している。
今しか、僕たちは生きられない。
今という時間軸の中でしか、僕たちは僕たちでいられない。
・・・・。
・・・・。
結局生きている僕たちとは、「過程」にすぎない。
その過程とはもちろん、死ぬまでの過程である。
過程。
死ぬまでの過程。
終わるまでの過程。
そこに何が在ろうと、それは必ず今という時間軸に縛られ、終わりがない。
・・・・。
・・・・。
・・・・。
そういう中で、僕が重視しているのは何か。
重視しているというと、何かすごく考えて頭良さそうに言っているように見えるけれど(そんなことないです。←ww)、単純に言うと今という時間軸の中で今は何も分からなくて、つまり『不安』で『怖い』僕は、何を頼りにして、何を灯かりにして死までの過程を楽しんでいるかというと、最近述べたように、「自分の半径2~3メートルの世界」である。
つまり、すごく小さな世界、すごく「狭い世界」を、僕は出来るだけ満たすことで、そうすることで今という訳の分からない時間軸の中で、出来るだけ「安心」したいと思う。
「自分の半径2~3メートルの世界」。
それを一番象徴しているのは自分の住んでいる世界であり、もっと狭めるとそれは「自分の部屋」である。
遠くの知り合いより近くの何とかみたいなことわざがあるように、僕は自分の近くの世界を出来るだけ安心出来るように、出来るだけ「美しく」あるようにしたいと思っている。
自分の世界を積み重ねる。
自分がこうであると思った世界をより近づいていく。
それが僕の日常であると言えるし、死までの過程の中で今僕がしたいかなあと思っていることである。
遠くは、遠い。←ww
近くをより満たすために、自分の近くを満たしていく。(は?←ww)
・・・・。
・・・・・。
ここ数年の僕は、20代の時のようなここではない、どこか「楽園」を探すような、今いる場所ではない所に希望や自分があると思って、五里霧中に探していた。
しかし、なかった、というべきか。
自分の居場所とは、今自分がいる場所である。
いや、正確には、そこが一番、自分の居場所になりうる、という感じか。
自分の居場所とは、自分を「積み重ねる」ことでより濃厚になっていく。
自分の居場所とは、自分が一番いた場所である。
ただ、いくらそれを積み重ねても、ぶっちゃけ意味がないというか、結局すべて「過程」なのである。
今という時間軸から、誰も逃れられない。
みんなある意味馬鹿というか、今の中でしか思考出来ず生きられない。
つまり、今という中でしか価値観を生み出せず、つまりそれは「今価値観」にすぎない。←ww
・・・・。
・・・・。
・・・・。
だから、あまり僕たちは差がないと言える。
みんな分からなくて、みんな探し続けている。
死ぬ過程の中で、みんな不安である。
死ぬ過程の中で、みんな孤独である。
それを出来るだけ減らすことは出来るけど、それはインターネットの承認欲求のように、終わりがなく、求めれば求めるほど終わりがないものである。(インターネットとは、そういう人の本質が顕れる場所である。)
差がない。
みんな、過程の中である。
・・・・。
・・・・。
・・・・・。
・・・・・。