「彼女が出来ることで自分はどう変わるのか」
7月1日土曜日。時刻は午後7時。
はあ・・・、疲れた。
今日も一応デートというか、というか、一般的なデートはしてなくて、自分の病気上あんまり出来なくて、変な?というか、特に何もしないでただ過ごす時間と彼女といたのと、それ以外にも、今後のことについて仲人さん?と相談したりしてきた。
今の所、順調?と言えば順調だと思うので、このままこれを進行していきたいなと思う。
一方で、タイトルのことについて感じていることを述べようと思う。
簡潔にいうと、彼女(まだ彼女と言えないかもしれないが)が出来ることで、自分は何も変わってない、むしろ、どちらかというと、退化しているように感じる。
・・・・。
というか、そもそも・・・。
そもそも、彼女と出会う前、その自分というのは、そもそも、存在していないと思う。(は?←ww)
自分は、自分の存在意義が薄いというか、というか、そもそも、人一人の存在何て意味がないとも思っており、もともと人は、油取り紙のような果てしなく薄い存在だと思っている。
彼女と付き合う前、そんな自分でも、ある程度大きさがあったというか、そう誤認していたというか、それは何故なら自己防衛のためだと思うけど。
彼女と付き合うことで、より、自分の存在の薄さ、脆さを明確に理解してしまって、より、自己否定が強まっているのかもしれない。
彼女といると、安心するだろうか?
・・・・。
というより、会っている間は、無になれるというか、あまり自分を考えずに済むのかもしれない。
会っていると、自分の意識を彼女に委ねる、1年か2年前に書いた、「祈りと依り」を、彼女を対象にしている感じだ。
彼女と会っている時、透明になって、自己認識が薄まる。
考えることが無くなる。
それは、美術館に行って、素晴らしい絵画を見ているような気分と似ていると思う。
考えることを止めて、意識内で自己を泳がす感じ。
逆に、デートが終わって、また一人になると、まだ何か、始動し始める。
ありきたりなことを言うと、自分が分からない?
いやまあ、彼女と会うことで、より疲れちゃうから、頭がより使えない状態に、今はなっている、というのもあるけれど。
一人になると、自分が何をしたいのか分からなくなるけれど、また数日たつと、いや明日にも、早く彼女に会いたくなるのだろう。
弱いというか、脆いというか、自慰的な人間である自分が、改めて連続している。
・・・・。