4月18日「才能とか運命とか環境とか境遇について」

「才能とか運命とか環境とか境遇について」

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ネットで時々見かける、ハローワークに麻生さんが体験?的に店員側に回って、ハローワークに来た人に対して「今まで何してたんだ?」と、その一画像ではすごく麻生さんが残酷的な風に映ってしまう切り抜き画像がある。(実際にその切り抜き前後を見ると、まあまま順当な流れだが。)

(一応ここにその画像を貼る予定)

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それで、その一画像関連でいうと、はっきり言って誰しもが、そういう側になる、つまり誰しもが「今まで何してたんだ?」と言われてしまう状況にぶっちゃけあると思う。

ある意味、今自分が置かれているまあまあ平和な、健やかな日常が置かれているのは「偶然」に過ぎないと、僕は思う。(その偶然の度合いを説明すると、まあまあ難しくなるが。)

人が生きるには、僕は「お金」と「コミュニティー」が必要だと思っている。

その中でもコミュニティーというのは、まあ、ある一定の「物理的空間・場所」が必要である。

例えばの話、10年前の福島の原発事故があげられると思う。

福島で「漁業関連」の仕事についていた人は、あれ以来どうなったのだろう。

漁業を生業にして、またそれは全国どこでもいいという話ではなく、やはり福島だから、その土地が好きで、やっていた人もいると思う。

そういう生きがいであり職業を、あの事件で一瞬にして奪われてしまった。

そういう状況に置かれた人に、「今まで何してたんだ?」と言って、その人たちはなんて解答すればいいのだろう。

彼らは何も悪くなく、はっきり言ってどうしようもない。

彼らの努力とか、才能とかそんなの抜きにして、ある意味「たまたま」、地震であったり、原発であったり、そういう自分以外の原因が重なって、そういう状況・環境に追い込まれてしまった。

何してたんだと言われても、自分を生きていた、としか言いようがない。

自分とはそういう意味で、自分以外の環境であったり、周りの人であったりにして構成されていることが多い。

そういうのが、ずっと続く人は、ほぼいない。

誰しもが、今の日常が、ある意味奇跡的に続いているのだ。

完全に、安定した人、自分以外のものに影響されない人はいない。

もちろん、かなりのお金持ちはもう働くことも必要なかったら、そういう意味で安定的であろう。

しかしそういう人も、実際には何かをやるわけで、その何か・行動的なものは確実に、周りの環境であったり、国の方向性などが絡んでくる。

例えば中国だと、ジャックマーだっけ、バオバオとか作った人、あの人でさえ、中国という国にだいぶ統制されてしまっている。(ユニクロの柳井会長がウイグル問題に関してノーコメントと言ったり。中国はある意味、とある側面から見ると、自由を排除されて、それは中国的にはむちゃくちゃ強いなと思う。)

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環境とか、才能とか、運命とか、境遇とか、それは結構、自分にはどうしようもなくて、どうにも出来ないことが多い。

だからこそ、誰しもが弱者になりうるし、だから弱者に対しては出来る限り「公的」な力を注ぐべきだし・・・。

また、弱者を蔑んでも、いつでも自分が弱者になるのだから、あまり「意味がないな」と思う。

僕たちの今があるのは、ある意味「偶然」に過ぎないのだから。

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4月18日日曜日。時刻は午後6時。

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