「さっきの日記で述べた仕事が楽しいについての真意について」
仕事が楽しいなんて言ったのは、おそらく今日の先ほどの日記で始めてではないだろうか。
現在の仕事についての自分の考えなどは以前から幾度か述べているけど、この「楽しい感覚」について今回は詳しく述べていこうと思う。
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7月14日水曜日。時刻は午後3時。
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仕事が楽しい。
僕の場合それはおそらく、「自分が持っている知識や能力でタスクを処理できる楽しさ」だと思う。
だからどちらかというとそれは、「ゲーム感覚」に近いと思う。
RPGで、ある程度序盤でつまらなく弱い敵相手にレベル上げをしておけば、そこはただ時間さえかければ誰でも出来るわけで、その結果中盤に行って強い敵でも割と難なく倒せる的な。
その楽さ・快適さ、しかし確実に処理出来ている爽快さが、先ほどの日記で述べた仕事が楽しいであると思う。
はっきり言って、すごく自分を俯瞰してしまえば、仕事なんて意味がないというか、何にもパーソナル的自分にとってみれば、ゼロである。
(働くことで、働くという社会の多数派の加わっているという安心感がおそらく一番の意味のある事だと思っている。)
働くとは無意味。
だけれども、働いていないと僕の場合「社会から孤立」してしまい、それがおそらく、今の僕にとって一番避けなければいけないことだと思う。
社会とはラスボスであり最大の親友。
社会とはすべてであり、また自分自身でもある。
(社会に助けられ、社会と共に生きている僕たちにとって、だから、社会的僕たちとは常に「何者か(他者にとっての何かという役割を備えてているor備えていることを意識しないといけない存在)」を問われ続ける)
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何の話をしていたっけ(笑)・・・。
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働く。→パーソナル的には無だが、社会的自己を得られる。
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その社会的自己を得られる仕事の中身として、ゲーム的にタスクをこなす。
僕の場合それは「雑務」だと思う。
特に何か専門的な知識のもとやっているというよりかは(その業界の専門的な知識はある程度持っていてそれを使ってはいるのだが)、どちらかというと働くとは「社会のネジ」になるというか、ようは人と人とを繋ぐための「緩衝材役割」が働くというものの中で大きなウエイトを占めるのではないかと思っている。
お客はAというものが足りないから、所持している会社がそれを提供し、提供する代わりに少しだけ利益を得る。
Aという商品と、お客を繋ぐ仕事。
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またそのAという商品をお客に渡すためのルートも繋ぐ・安定化させる。
Aという商品を例えば「ケーキ」とした場合、それを作るのには材料が必要であったり人手が必要であったりその人手を置く空間・土地が必要であったり電気代であったり運送料がかかったり。
Aという商品をお客のもとに渡すためにはそれまで色々を経て、その色々な経てをお客にとっては面倒で時間がかかるので、それをお金に換えて、僕たちはそれをもらう。
仕事の大半は、そういった「繋ぎ的役割」に過ぎず、その繋ぎ的役割にこの仕事について4~5年経つので慣れてきて、ある意味何も考えずオートメーションでそのタスクをこなせていて、その処理するのがゲーム感覚で楽しい、のだと思う。
すでに自分の中でレベル上げは終わっていて、後は中盤の敵に出会うことでオートメーションに敵を倒すことが出来るから。
社会参加+既に持ちうるスキルを駆使してのオートメーションタスク処理。
その二つが、僕にとっての仕事だと今の所思う。
奪われるのは時間だけれど、しかしまた、仕事をしていない時「社会参加」を奪われている、とも考えられる。
だから、まあ、そのバランスが重要なのではと思う。
パーソナルな自分と社会的自分。
その二つをバランスとりながら暮らすのば、今の僕の場合、精神安定に繋がると思う。
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