少し泣く。(←ww←微妙に笑えんから泣けるし、そこまがまた面白いし、そこがまた悲しい。悲しいと涙の永遠ループ。突然の真顔。)
現在、8月22日午後9時半。
気分的には、少し落ち込んでいる。
落ち込んでいる?
う~ん、落ち込んでいる、は少し違う。
詳しくは後で書くかもしれないが、僕の精神構造は、一般的な落ち込むことは、ないといえば、ない。←ww
その説明長くなるので、まずは違う話から。
それに関連したお話から。
少し、落ち込んでいる気がする。
少し、寂しい気がする。←ww
少し、現実の僕を知り、少し悲しくなっている。←ww
・・・・。
・・・・。
どこから話そう。
てか、誰かこのブログ見てる?
そこはいつも心配。
なのでアクセス数とかコメントとかチェック出来ない。
チェックして見ている人0だったら、立ち直れないから。
数人が見てくれている前提で、数人に対して語っていく。(数人の見てくれてる人、ありがとう。愛してるぜ。もし現実で俺と会ったら、ご褒美に何か食事をおごってあげるぜっ。大須にあるいきなりステーキはどうかな。いきなりステーキぐらいしか、美味しい店知らないぜっ。)
・・・・。
・・・・。
きっかけというか、それはこのブログを書き始めて、徐々に気づき始めたことなんだけど。
特に効いたのが、昨日の僕のブログ。
昨日の僕のブログの中の、特に「家と会社との往復」、というキーワード。
家と会社との往復、という、悲しいキーワード。
家と会社との往復って、ドラマや映画とかで、よくお父さんとかおっさんとかがたまに言うよね。(最近俺は、全然ドラマや映画を観てないが。)
で、俺も、ドラマの中のおっさんがそのセリフを言っている時に、ただただ「へー」と思っていたわけよ。
へーとか。
へーとか。
それはつまらないよなとか。
それは同じことの繰り返ししてて、馬鹿っぽいなとか。
で、昨日、自分で自分語りで、その言葉を発して。
えっ、て。
ああ、俺もなのかって、ようやく気付いて。
自分も今、ただただ「家と会社との往復だけ」って、今日、昨日のブログを書いたことで薄々実感してきて。
俺もじゃんって。
俺自身が、家と会社の往復しかしてないじゃんって、実感して。
それが、すごく「悲しく」なった。
その事実を、今まで自分自身が気づけなかったことに、どこか「震えた」。
いや、気づけよって。
自分自身がいつの間にか、ただの家と会社往復人間になってるやんって、何か昨日初めて自意識に乗せて。
その事実に、何か、急にこわくなった。
俺、だいぶ、終わってんなって。
というか、なんでこの3、4年間、それに気づかなかったのだろう。
「必死」だったからか。
ああ・・・。
うん。
たぶん、必死だったからだろう。
それまでは僕は、アルバイトはしていたけれど。
正式な「働いた」は、してこなくて。
(僕の20代は、20~24は半ひきこもり。ニート。24~27はアルバイト。27~現在は一応会社員。これはアバウトなので、少し年数は違っているかも。)
なるほどね。
正式な「働いた」が、僕はまだ短いのか。
そう考えると、ちゃんとしている人は凄いな。←ww
18歳とか22歳から、この会社と家との往復を積み重ねているのか。
うわあ・・・、まじか。
ごめん、何だか、少し気持ち悪いわ、それ。←ww
マジか。
そんなにみんな、働いているのだろうか。
そんなにみんな、縛られて生きているのだろうか。
マジか・・・。
てか、きつくね?←ww
俺、約3年ぐらいしかまだやっていないが、もうキツイんだけど。
もう結構、「限界」というか。
すごく「虚しい」というか。
まるで「夢がない」というか。
特にさ、仕事が別にやりたいことじゃないのが、辛いよね。
ほんま、時間で金を稼いでいるだけ。
クソみたいに時間を奪われて、クソみたいな金をもらっているだけ。
時々そりゃあ、やりがいはあるよ。
でもさ、それってさ、何か、『偽りの充実感』なんだよね。
会社における存在を満たすために、哀れに自分がやりがいを感じているというか・生み出しているというか。
それと、本体の俺とは、結びつかない。
会社で感じた充実感なんて、家に帰れば「ゴミ」のように感じてしまう。
今の仕事に対しては、何の「本質」もない。
今の仕事の中に、俺の「核(コア)」はない。
だから悲しい。
満たされない時間を、一日の中で多く費やし、そして家に帰ってからもそれから生じる疲れに俺の大切な夜の時間を奪われているのも悲しい。
かと言って今のところ、今の仕事に変わる「代案」が浮かばないのがまた悲しい。
金が発生するもので、自分がしたいものが特にない。
俺は別に、生産的なことがあまりしたくない。
働きたくない。←wwwww
ただ、今働かなくなると、微妙に大切だと思っている、「社会との繋がり」が途絶えてしまう。
この「社会との繋がり」というのも、非常に『曖昧』なものなんだけど。
その定義を、自分自身でもあまり明確にしていないけど。
他人とある程度の時間、同じ空間にいるってことは、たぶんおそらく「大切」なんだ。
それがなくなってしまうと、生きるうえで必要な、「精神安定剤」的なものが、失われていくような気がして。
特に今の僕は、仕事以外でも、特に「趣味」といえるものがないから。
これもまた、僕にとって大きな問題なんだ。(少しだけ憂鬱モード)
家と会社の往復の繰り返し。
この3、4年間ぐらい、ほぼそれしかしてこなかった。
じゃあ、仕事以外で、僕は何をしていたか。
これは以前のこのブログ内の日記でも振り返ってみたけれど、やっぱり一番は「休む」が多いんだよね。
土日、ほぼ半日はベッドに横になっていて。
最近になって、市民プールに行って少し泳ぐという趣味が出来たけれど。
それ以前とか、ほんとに外出する用がなかった。
栄のロフトの、本屋に行くぐらい。
俺、土日、全然何も体験してないなって、最近気づきはじめた。
よくよく考えて、俺、会社以外で一言も喋っていないなって気づいて。
なんか、すごく悲しくなった。←ww
というか、よく存在していられるなって。
マジで、俺、いないじゃんって。
何か急に、こわくなった。
誰とも交流せずに誰とも交わらずに、俺って誰の為に何のために生きているんだろうって。
今までの自分の動きとか所作とか、すごくこわくなった。
僕は何のために動いているんだろうって。
僕は何のためにテレビを見たりインターネットを見たりしてるんだろうって。
僕は何で、身体を動かし心を動かしているんだろうって。
『僕には何もない』って、今日昨日、「実感」した。
何のために俺は想っているんだろうって。
何のために俺が生きるを馬鹿みたいに「延長」しているんだろうって。
この先の未来に、何か「明るいこと」があることを望んで、俺はクソみたいな生きるを無様に延長しているのだろうか。
何か急に、想うことさえ馬鹿らしくなっていった。
だから、昨日の話の続きだけれど、僕は僕を少しずつ、変えていこうと思う。
自分という「器」に少しずつ、「違う色」・「違う液体」・「違うニオイ」を入れていこうと思う。
今のところ、自ら死ぬ予定はない。←ww
今のところ、クソみたいに生きるを延長していく予定である。
少しずつ、今の僕を変えていく。
僕は僕という器を使って、少しずつ「実験」をしていこうと思う。
僕たちというのは、『時間と空間』で僕たちをかたどっている。(たぶんおそらく)
僕たちというのは、時間と空間から生み出される想い(=思考。心)によって、自分を形成している。
僕は少し、今の僕の「時間と空間」を変えていこうと思う。
時間は変えられないから。
時間は誰にも自分の意志では変えることは出来ないから。
空間を。
場所や人やモノや自然などの要素が絡み合って成り立つ空間を、僕は少しずつ変えていこうと思う。
つまり、「旅をする」。
今日のブログを書いている僕は、家の自分の部屋にいる僕が書いているものだ。
この空間に僕はいるから、今日のこの文章は生まれている。
僕はこの空間に、少し『飽きた』。
この空間に慣れてしまっていることに、僕は気づけていない。
この空間から今の僕が形成されてしまっていることに、この空間にいる僕は気づけていない。
だから少し、場所を変えてみようと思う。
場所を変えて、僕は何を想うか。
それを、「観察」してみようと僕は思う。
いずれにせよ僕は、この自分の部屋という空間に、長くいすぎたのだ。
この空間を、もう少し離れなければいけない。
この空間を、もう少し「俯瞰」してみなければいけない。
僕はもう少し、僕のことを知りたい。(弱気だね)
僕はもう少し、世界というものを知りたい。
まだ、僕は知らない。
まだ、僕は僕を知らない。
ということで、今夜は以上です。
今夜も読んでくれて、ありがとうです。
本当に、ありがとう。
君がいてくれて、本当にうれしいです。
特に会いたくはないのですが。(君が美女なら会いたいですが。)←ww
僕にわずかな「繋がり」を与えてくれて、どうもありがとう。
弱い弱い僕は、君という存在がいるから、今夜も想えました。
君という存在がいてくれて、どうもありがとう。
ありがとうありがとう。
ありがとう。
それでは、おやすみなさい。
・・・・。
・・・・。
にゃはは。←これ、何なん。←ww