8月24日その1「山をなめるな、犬飼ユウ。山こわい。文明のありがたさ感じれ。」

現在、8月25日、午前2時半。

午後9時半ごろ旅行から帰ってきて、風呂入ってから横になっていたら寝ていて、起きたら今の時間だった。

文字通り、おはよう。

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・・・・。

ふう・・・・。

色々と、「学び」が多い旅行だった。

それは思考的な学びではなく、一般的な、旅行に対する学び。

簡単に言えば、あんまり旅行期間中にキツキツな予定を組んでしまうと、ただただそれは「疲れちゃう」よねって。

全然、「バカンス」なんてものじゃないよねって、よく旅行した時にいわれる例のアレ。

家最高って思っちゃう系な旅行の仕方。

思い出を振り返る前に、疲れが圧倒的に思い出を支配してしまうよねっていう、よく旅行した時に聞かれる、例のアレ。

ちょっとやっぱり、今回の旅行は旅行の仕方が下手だったなと、こんな深夜に反省。

てか、こんな遅い時間に起きていたくない。

明日の日曜、自分が上手く調整しないと、月曜日の出社にもキモ悪影響を与えてしまう。(出社って言葉、初めて使ってみたけど、使うだけで吐きそう。←w)

こんなの、旅行じゃないな。

余力を残して夕方ぐらいに帰れるものが、俺にとって旅行といえるな。

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・・・・。

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さて、本題というか。

いつもの感じで、何かを想っていきましょう。

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あ、生きていますか、この画面の向こうの、泣いている「君」は。

君が生きていようが生きていまいが、別に「どちらでもいい」のだろうけど。

君が幸せだろうが不幸せだろうが、今の僕はどちらでもいいのだろうけど。

君を想うことで、僕の思考は展開し始めていくものだから。

架空の君を、僕は利用して思考展開していく。

白紙の君を、僕は想定して、自分の想いを「解析」していく。

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今回の旅行中にも書いたものと、少し内容が被るけれど。

8月23日、時刻的には、8月24日の深夜に書いたものと、少し内容が被るけれど。

何故僕がこんなにもして、こうやって日記を残そうとするのか。

何故僕がこうやって旅行から帰り家に戻って、寝て、深夜に起きてさえ(深夜に起きたのは偶然ではあるが。特にアラームとか設定していないし。たまたま深夜に起きた。)

こうやってブログ記事を書こうとするのか。

こんなにも「熱心」になったことは、この10年間を振り返ってもないと思う。

旅行中での日記でも触れたとおり、この感情は「熱心」とは少し違う。

すごく、機械的に、やっているというか。

そんなに絶対に書きたい書きたいとも思っていない。

そんなに絶対に一日一回は日記を書いておきたいという気持ちもそんなにない。

何となく、やってしまう。

何となく、日記を・ブログを書いてしまう。

この気持ちは、何なのだろう・・・・(恋かな?)

31年間今まで生まれてきて、こういう気持ちを経験したことは記憶にない。

すごく、自分の想いが「喜んでいる」というか。

こういう方法があったなんて、初めて知った感じ。

日記とかって、書きたいと思っても、三日坊主でやめてしまうじゃん。

僕もそうだった。

日記書きたいなって思っても、すぐにその価値を忘れていく。

日記を書きたいなって思っても、すぐに何故書こうと思ったかを忘れていく。

何故続かなかったのか。

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あ、やっぱ、かなり疲れてる。←ww

この話題書くの、面倒くさくなった。

他の話題にしよう。

というか、すごく足が痛い。

歩きすぎた。

歩きすぎたというか、険しい道を歩きすぎた。

やっぱ、日常を離れて、どこかに行くのって、難しいな。

「見たい」という気持ちが、変に先行してしまう。

旅行中の今しか出来ないという気持ちが、変に自分を急かしてしまう。

自分が「暴走」してしまう。

日常を猛烈にぶち壊してしまう。

それを求めていたのだけれど。

だけれど、日常に戻らなければいけないのだから。(それは今のところ、いい面も悪い面もある)

あんまり、旅行中に「暴走」してはダメだ。

旅行の日程を、詰め込みすぎてはダメだ。

というか、今回1泊2日なのだから。

金曜の、夕方に出発した旅行なのだから。

そんなに、旅行旅行出来るわけないじゃん。

悲しい。←www

旅行旅行出来ないのが、悲しい。

2日しか日常を離れることが出来ないのが、悲しい。

こういう感じだと、特に連休がない普通の週休2日では、遠くへは旅行出来ないな。(最近の俺は、週休3日が多いけれど。)

静岡県(富士)という、割と名古屋に近いところでさえ、満足に見ることは出来なかったのだから。

今後の、僕のこの、「名古屋脱出計画」を、考え直さなければいけない。←ww

今後の、僕のこの、「日常脱出計画」を、考え直さなければいけない。

今の日常を、劇的に変える予定はこれまでと同じ通り、特にない。

劇的には変えないけれど、少しずつ少しずつ、今の僕の日常ではない「成分」を、僕に入れていく。

劇的には変えないけれど、少しずつ少しずつ、これまでの僕ではなく、違う僕・知らなかった僕を増やしていく。

今は、そういう時期なのだ。

これ、話すと長くなるけれど、10年前ぐらいにも、似たようなことがあった。

10年前、僕は「東京」にいた。

20歳頃、僕は「東京」にいた。

そこで僕は何をやったか。

確かこれ、以前のブログの「眠音」内の日記で、少し書いたかな。

東京中を旅したことを。

東京中を散歩したことを。

僕は、以前から、こういう「クセ」を持っていたのだろう。

見たい・知りたい・実際に足を運んで、自分の目で確認したい。

その思いが、この10年間封印されていただけだ。

僕は元々、こういう性質・性格だったんだ。

この10年間、僕はどうやらかなり、「迷っていた」っぽいんだ。

この10年間、僕はどうやらかなり自分を「閉じ込めていた」っぽいんだ。

大好きな自分を、少しでも「解放」していってあげたい。

機械のように・人形のように、心なくして過ごしてきたこの10年間を、取り戻してあげたい。

時間には限りがある。

お金にも限りがある。

すべては無限ではない。

10年前と違って、少し「現実」も知ってしまった。

10年前の、自分が僕は好きだ。

中学生でもなく、高校生でもなく、ニートでもなくフリーターでもなく、会社員でもなく。

大学生であった自分が、僕は好きだ。

20歳頃の、自分の『瞳』が僕は好きだ。

あの頃の自分が、僕は僕の中で一番好きだ。

親からも解放されて、学校からも解放されて、ようやく社会にひとりの人間として社会に触れていく感覚があった、とても「自由」なあの頃の僕が、僕は好きだ。

自分に、そういう「時」があったことを、僕は誇りに思う。

特に、たいして楽しいことがあったわけではない人生だけど。

かなり、「ひとりの時間」が多すぎたこれまでの人生だったけど。

僕という生き物は、僕自身で、『理解』しなければダメだ。

誰も代わりにはなれない。

誰も僕の代わりはなれない。

僕という生き物が何を感じ、何を得ようとし、何を失おうとしているのか。

ゆっくりとゆっくりとそしてじっくりと、僕は僕を「観察・研究・理解・発展・検証・確認・承認・否定」しなければいけない。

ああ、それって、おもしろ。

ああ、それって、メンド。

一旦休憩します。

ああ、疲れた。

今日もありがとうね。

君がいてくれていて。

君がこのブログを読んでくれて。(いるのか?←ww)

泣いてる君が、「存在」してくれていて。

どうも、ありがとう。

それじゃあ、一旦休憩。