8月23日その2「先輩。」

答え。

応え。

こたえ。

・・・・。

・・・・。

賢者タイムの戯れです)

・・・・。

・・・・。

結局、こたえ。

結局、こたえ。

・・・・。

・・・・。

「こたえ」なんだよなあ・・・。

結局、「答え」なんだよなあ・・・。

答えが欲しい。

応えが欲しい。

正解。

真実。

確かなもの。

確実なもの。

これらが欲しいから、僕たちは馬鹿みたいにまた明日を生きてしまう。

まるで、明日には答えがもらえるかもという「幻想」を持って。

だからこそ、僕は別に、死にゆく人を蔑んだ目では全く見ない。

むしろ自らの意思で死にゆく人を、少しだけ少しだけ、「尊敬」さえする。

尊敬、という言葉は、少し違うな。

ああ、そっちの「選択」を取れたんだ、的な。

クソみたいな「生きる」に惑わされず、死を「選択」出来たんだって、少し「面白味」を感じる。

そっちの側面を、僕たち生きている人は知ることはできないから。(一応、臨死体験とかはあるが、僕は体験したことないので分からない。)

死を知らない生きている人が何を言っても、「ゴミっぽく」見えるというか。

結局それは、想像にすぎないし。

生きてる人が死についてあれこれ言っても、「戯言」にしか聞こえないし。

死は死んだ人だけが、知っている。

僕たちは知らない。

僕たちは全員、「予測・推測」でしか死について喋れない。

だから、どこか、生きている人はみな、「クソ馬鹿」っぽく見えるというか。

死を知らないで、生も語れないよっていう。(死を知って、生を語れるかは、僕がまだ死んでいないので知らない。)

たぶんおそらく、生きるということに対して、何の「確証」ももっていない。

そういう意味で、これまた、僕たちにあまり「差」はない。

みんな生きることに不安。

みんな、生きるということがどういうことか分からぬまま、生きている。(程度の差はあるが)

だから、何というか、こういう考え方をもっているから、僕はどこか、「冷めている」のだろう。

クソみたいに生きている人が、馬鹿みたいに騒いで、よかったねって。

生きるということに、皆が皆、何の説明書も与えてもらっていない。

分からないまま真面目なふりをしたり勤勉ぶったり、おちゃらけたり、興奮したり。

そして死んでいく。

生きるとは何かの謎を解けないまま、何の爪痕も残せず、何か残したかのような気になって、やがて死んでいく。

結局、分からないまま。

死が生が何なのか、分からないまま。

その問いに、近づこうとはする。

実際、とても近くに近づいている人はいる。

しかしその人もまた、たどりはつけない。

誰も分からない。

誰も解けない。

生きるとは何なのかについて。

死ぬとは何なのかについて。

自分とは何なのかについて。

世界とは何なのかについて。

興味がない振りはする。

それらのことなんて、考えたこともないという人がいる。

でも、稀にその「問い」に触れる。

生きていく過程で、どうしてもその問いを考えなきゃいけない場面が全員に訪れる。

その場面を、忘れているだけだ。

その場面の記憶を、消しているだけだ。

僕たちの頭の中に、「?」は消えない。

色々なものに対して?を感じるけれど・疑問を感じるけれど、それらは集約されていくと、結局生きるとは何かという問いになっていく。

想ってしまったら、僕たちはその問いに逃れられないのだ。

思考を展開させ始めてしまったら、僕たちの疑問質問はすべて生きるとは何かの問いへと繋がっていくのだ。

みんな、逃れられない。

みんな、答えられない。

みんな、明確には応えられない。

みんな、確信を持っては応えらられない。

分からないまま僕たちはまた、一日を終えていく。

生きるとは何か・死ぬとは何かが分からないまま僕たちはまた、明日に託していく。

いや、明日に後回しにしてしまうと言ってもいいか。

今日生きても、僕たちは分からない。

今日分からないから、明日へ。今日分からないから、明日も生きて死なないで。

僕たちは、ある意味「無駄に」生きている。

僕たちは、ある意味逃れながら、また明日も生きていく。

みんな分からない。

みんなその問いに答えられない。

みんな、『生きているふり』をしているだけだ。

生きるが何なのか分からないから、ふりしか出来ないのは当然だ。

だから、みんな、中心を知らずして、廻っている。

みんな、真ん中に配置されているものを知らないまま、巡り続けている。

みんな人形じゃないか。

みんな、何が楽しいのかさえ分からず、楽しいっぽいふりをしている。

生きるという核が分かっていないのだから、真に楽しいことなん分かるはずもない。

誰も、正確には『存在していない』。

存在しているようにしてるだけ。

存在しているように見ているだけ。

100%はない。

  • 99999999999999999999の中で、僕たちは生き続けている。

だから、楽しいともいえる。

だから、生きるのは悦ともいえる。

前提が、分からないものだからこそ、生きていけるということもある。

すべて偽りとした上で、生きるという選択もある。

そういう生きるなら、僕は「納得」できる。

すべてが「無」とした上で、有していくというのなら、僕は「安心」できる。

有があって、無があるのではない。

無があって、有が存在していく。

すべてが嘘としたうえで、真実が存在していく。

すべてが虚像としたうえで、すべてが実像と認識していく。

それならば、僕は納得できる。

みんなこわい。

みんな、生きるのがこわい。

みんな、何となく生きている。

みんな、生きるとは何か分からないまま頭の中に?をとどめたまま、誰かに何かに流されて・影響されて、意味もなく生きている。

みんな、分からない。

みんな、答えを知らない。

みんな、生きるとは何かの本当の答えを持たないまま、何となく生きている。

差がない。

みんな、馬鹿。

みんな、かわいそうな子供。

みんな、答えを欲し続けている。

誰も到達できない。

誰も不安を解消できない。

誰も安心何てしていない。

永遠には、安心できない。

久遠には、幸せにはなれない。

みんな、刹那。

みんな、悲しい。

だから、嬉しい。

だから僕は、嬉しい。

誰も答えを、持っていないから。

・・・・。

・・・・。

以上です。

寝ます。

現在8月24日、午前2時半。(旅行のこと話せよww)

まあ、言ってしまえば、旅行もまた、この想うための肴(さかな)みたいなものだから。

そうなんだよ。

ただ旅行に行くだけなら、僕はこんなに駆り立てられなかった。

旅行中に色々思って、そして夜に、その想いの中のどれかをこうやって日記として残したいから、僕は旅をしたい。

このブログがなかったら、僕はこうして旅をしていない。

このブログの中に存在する、僕の中の人格たちを満たすために、僕は旅をしたかったのだ。

・・・・。

それは、良い所に気づきましたね。←ww

こうやって、名古屋の自分の家の自分の部屋とは違う想いが生まれるから、僕は旅をしたいんだ。

結局僕は、自分の脳を幸せにしてあげたいんだ。

結局僕は、自分の心を満たしてあげたいんだ。

ただ想うだけではなく、こうやって想いを文章にして「残す」ことで、僕はとても満たされている。

とても幸せ。

様々な自分を感じ取れて幸せ。

自分の部屋以外の、自分を感じ取れて、僕は幸せ。

・・・・。

そろそろ眠いので、この辺で。

今日もお疲れさま。

今夜もこのクソ読みにくく、クソ内容のない僕の日記を読んでくれてありがとう。(コメントとかアクセス数は今のところ見ていないので、本当に誰かが見てくれているかは分からないけど。←ww)

君のおかげで、僕は存在している。

君を想うことで、僕はこうして、自分語りが出来る。

僕は、僕だけでは成立しない。

僕は、僕だけでは存在しない。

他者がいて、初めて僕はここにいる。

誰かに見られることを意識して、初めて僕は僕をさらけだせる。

君のおかげで僕がいる。

君のために僕がいる。

僕のために君がいる。

全然会いたくはないが、どうも、君が存在してくれていて、どうも今夜もありがとう。←ww

それじゃあ、おやすみ。(と言っても、これが君に読まれるのは旅行後だが)

今日もお疲れさまでした。

おやすみなさい。

おやすみなさい。

・・・・。

・・・・。

にゃはは。←ww

・・・・。

あ、ちなみにですが、今日富士宮イオンシネマで、天気の子を途中まで見ました。←ww

そこらへんも、いつか話していきたいと思います。

映画を見に行ったのは、10年ぶりぐらいです。

そんなに映画は好きではないので、この10年間、たぶん行っていないと思う。

ちょっと映画を食わず嫌いしていたので、今後、映画を見に行く機会を増やしていきたいなとは思っています。

ただ、彼女と行きたい。←ww

(いつもの広告)

それじゃあ、お疲れ様です。

おやすみなさい。

にゃはは。←ww