3月22日その5「集約されたものを僕たちは欲している。」

「集約」されたものの話。←は?←ww

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3月22日日曜日。時刻は午前10時。

これも前々から思っていたことなんだけど。

僕、おそらく多くの人の場合、「集約されたもの」の方が、好んでいるかなと。

例えるのが下手なんで説明しにくいけど。←www

一つ例を挙げるとすれば、「恋に恋する感じ」。

実際の恋愛体験よりも、もしくはその恋愛体験をもとにして、「想う」ことの方が「幸せ」的な。

これは恋愛に限らず。

僕が最近よく言う、リアルは諦めてフィクションを楽しむ、という考えも近いと思う。

つまり、現実の「生もの」よりも、それを「集約」した、それのいいとこどりをした「物語」であったり「想い」の方が、僕たちは気持ちいい。

というか、物事においてそれらすべてを捉えるのは結局僕たちの頭であったり心であったりする。

そうした上で、いかに僕たちの頭が気持ち良く物事を整理出来るか。

つまり、いかに効率よく物事を「吸収」出来るか。

現実の生ものである場合、それを処理しないといけない。

それをどう捉えるか、自分の頭や心の中で解体したり構築したりして、「咀嚼(そしゃく。噛み砕く)」しないといけない。

それはかなり頭や心を消費するし、またそれの処理が下手な人は綺麗に処理を出来ない。

だからある意味、上手く処理できる人に自分が想っていることを「代わりに」言ってもらったり、要約してもらったり。

結局想いを納めるのは、僕たちの脳や心でしかないわけで。

現実というのは、あくまで「材料」に過ぎない。

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何を言いたいかっていうと、アウトプットというのはつまり、「集約側」にあるものなんだってこと。

この文章はだいぶ集約が下手な文章だけど。

僕たちは「生もの」をあまり求めていない。

それが実際にどう自分に効率的に吸収できるか。

結局は「想い」になればいい。

そんな感じ。

だいぶ分かりにくい文章になってしまった。←www