6月14日「9割現在、1割過去(歴史。学問)理論。」

9割現在、1割過去(歴史)理論。

これめっちゃ重要。

この記事、今後このブログ、というか僕の生き方の「根幹」になるであろうから、固定記事にしようかなあとも思っている。

6月14日日曜日。時刻は午前9時半。

・・・・。

先週、土日にまとめるといった奴はこれのこと。

基本的に最近、暇な時はこの理論についてばっかり考えている。

どういうことかっていうと、簡単なんだけど、僕自身あまり整理出来ていなくて。←www

今日いっぺんには書ききれないとうか、まだ頭の中でまとまりきれていないから、今後おそらくずっと、このことについて論じていく。

9割現在、1割過去(歴史)理論。

それはつまり、僕のこれからの「生き方」についての定義。

君たちはどう生きるか

どう生きるか。

どう生きるべきが正解なのか。

その解はなかなかわかりづらい。

また、これだっ!と思った生き方でも、ふと時間がたったらそれは違うなと思ったり、迷ったりする。

つまり、どう生きるかについての正解は、どうやら見つけられないというか、無数になる。

何故か。

何故、正解がないのか。

その大部分の理由は、僕たちの多くは「今」にしか生きられなくて、また「今」に縛られているから。

それは悪いことじゃないけど、その事実に気づかない限り、一生「分からない」から出られない。(しかし気持ち悪いことに、今から出来るだけ離れる、つまり「過去」(歴史や、それはつまり学問。この辺のことも詳しく語る)に近づいたとしても、より分からないは無限に増えていくけれど。)

分からないを分かろうとすればするほそ、分からないは増えていく。

「今」に縛られた分からないを、今から離れて過去や学問で解こうとすればするほど、分からないは無限に増殖していく。

話を少し戻そう。

僕たちは「今」に生きている。

また、今を生きるのがおそらく、今を生きる正解だろう。

今という時間軸の中で、僕たちは今を生きることしか出来ない。

僕はそのことに窮屈していた。

僕はもう少し、「俯瞰」したいと思っていた。

僕はもう少し、心の余裕をもって、今という僕たちの生きるのほぼすべてが詰まっている時間さえ、「離れたい」と思っていた。

その答えがおそらく、「歴史」だ。

今という時間軸から離れて、過去から今を解き明かす。

例えばヤフコメみたいに、今の話題を自分が今感じたように感想を言うのは非常に「刹那的」で、また意味がない。

ヤフコメに限らず、ツイッターでのコメントもそうだし、ツイッターに限らず、人々が大抵、自分の「感性(笑)」とかで喋るものは大抵、寒いというか、僕にとってみれば、どうでもいい、しょうもいないと感じる。

全員今に縛られている。

全員今の中でしか物事を見れていない。

それ別に、間違っていない。

むしろそれの方が「人間らしい」と僕は思う。

今を生きているのはよっぽど、そっちの「刹那的」なコメントや考えだと思う。

だけど僕は、疲れてしまう。

だってそういう言動、何回も何万回も繰り返されてきたから。

全然、学んでいない。

もしくは「飽きた」。

結局今生きている人はどんだけ年を取っていても、「100年」ぐらいの見た聞いたの経験からしか物事を言えないし、語れない。

要するにみんな、たった100年の物事の考えなんだ。

人類というのは、大体4000~5000年。(文字とか言語を使い始めて。もしかしたら違っているかも(笑)。)

また人類さえ越えて、地球とか宇宙とかも考えたらもっ遠い。

そういう、遠い視点、『永い視点』が、僕は好きだ。

それが1割の部分。

あれだけ今を批判していながら、それでもやはり僕が生きるのは今でなければいけない。

だから意識的に、9割は今を生きる。

直感的に30年の経験的に本能的に、僕は今に触れ続ける。

基本、僕も変わらず今を生きる。

ただ残りの1割の部分。

そこに歴史であったり、学問の意識を入れておく。

学問というのは歴史であり、また人類の「分からない」を解き明かしてきた歴史だ。

学問こそがある意味「歴史の歴史」といえるのかもしれない。←何言ってんの?←ww

歴史を解き明かしてきたものが「学問」。

色々な角度から、学問は歴史(人類)を解き明かしてきた。

哲学、物理学、歴史学、科学、生物学・・・。

それがつまり、「学校」の意味だろう。

その事実に僕はようやく気が付いた。

何のために学ぶのか。

それはおそらくほぼ大抵の人にとって無意味であろう。

学問とはつまり今を生きる道具ではなく、「人間とは何か」を切り開いていく道具なのだから。

今を生きるにはあまり、学問を必要としない。

しかし例えば死ぬとき僕たちは振り返る。

僕たちは何のために生まれてきたのか。

この世界とは何だったのか。

それを解けるのは、もしくは解く場所として成立しているのは、「学問」しかないし、だから僕たちはその基礎を、「学校」で学ぶのだろう。

つまり学校などで学んでいない人は永遠に、今を生きることになる。

それは全然、間違いではないだろう。

僕たちは今しか生きられないのだから。

しかし。

しかしその命は、何も残すことなく、もしくは自分の存在に問いを投げかけることなく死んでいくだろう。

ただ、今を生きただけで死んでいく。

それは学問に触れても触れなくても、変わりはないのだけれども。

学問に触れているだけ少しだけ、今を「俯瞰」出来る、つまり今に縛られず、「歴史」の中で自分の存在というのを体感できるのだ。

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・・・・。

今回の文章、どれくらいの人に伝わるのだろうか‥(笑)。

おそらく、学者以外の人には伝わらないだろう。

それぐらい、多くの人は「今」に夢中であり、今に病んだり今に正しさを求めようとする。

また、それこそがある意味、正しいのだ。

(笑)。

学者がいいという訳ではないのが、これの面白いところだ。

何故ならいくら過去や学問を学んでも、今を気持ち良く生きられるという訳ではないから。

(笑)。

ここが、面白い所。

学問を学んでも、結局人類や自分の「一かけら」を得るに過ぎない。

そして学問を学べば学ぶほど、その「迷路」から抜け出せなくなってしまって、「今」から離れてしまって、より「今を生きる」ということが難しくなってしまう。

(笑)。

だから、学問なんて触れない方がいいのかもしれない。

何も知らず、学ばず、今に縛られて、今の中で悩んで、今の中でアホみたいに達観して、自分を認めるために自分を納得させて。

そうして何の特徴もないまま、自分の命を終えていく方が、僕は「今を生きる」と思っている。

自分という存在をどこから見るか。

ただのアホのまま、それでも楽しく心地よく、今を生きて終わるのか。(学問を学ばない側)

自分の存在に疑いをかけ、歴史の中で自分という存在を冷たく見つめて、寂しく死んでいくのか。(学問を愛する側)

学問(歴史)を学ばない側、学問を愛する側。

これを9:1で、僕は今後生きて行く。

つまり、9割今に比重を置いて、今を楽しく、今に縛られて、周りと同じような「ふりをして」、僕も変わらず、ただ単純に今を生きて行く。

だってそっちのほうが、「楽しい」から。←www

しかしそれだけじゃ、つまり「刹那」だけでは僕は生きているのが楽しいといえない。

だから、残り1割。

そこに歴史の意識、もしくは学問の意識で生きることをのぞんでいく。

9割現在、1割過去(歴史。学問)理論。

これが僕の、今後の生き方だ。(どやあ)←ww

今日書いたことを、誰かと共感したい。←wwww

共感というのも、9割側、つまり、今を生き今を楽しむ側のものだ。

そんな感じです。

疲れた。

・・・。

・・・。

・・・・。