8月2日「迷惑系ユーチューバーやテラスハウスの花さんとかについて思うこと。」

へずまりゅうに対する私見

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8月2日日曜日。時刻は午後2時前。

誰って思った方はググって。(というか、このブログ誰も読んでない。←ww)

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色々な点で様々な「解釈」を私たちに示してくれたへずまりゅうさん。

今回は主に彼を前期へずまりゅう、中期へずまりゅう・後期へずまりゅうに分けて、彼についてやYOUTUBEとは何かとか表現とは何かを探っていきたいと思う。

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ちなみに私は彼のことを「ユニーク」だと思った。

そのユニークというのはその言葉本来の意味からは外れるかもしれないが、僕は「興味を惹いた」という意味で使っている。

すべてはこの「ユニーク」から生まれている。

へずまりゅうから話をずらすが、僕はすべてのものごとの関心や、人類とは何かという問いについて「美しいから」という答えを持っている。(は?←ww)

僕たちの行動であったり本能であったりをすべて理由づけすると、それは「美しいから」であり、その美しいという言葉の意味は何かと問われると、美的なことよりも「惹かれる」、つまり「ユニークだから」ということになる。

すべての行動原理はそれが自分にとって「ユニーク」だったから、という感じ。

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話戻して、へずまりゅうさんに対して。

前期は彼がYOUTUBEで話題になり始めてから、主にジュキヤさんはラファエルさんやコレコレなど大物配信者に凸し始めた辺り。

中期は彼がコロナ自粛中のパチンコ店に突撃したり、違法に服を高く売っている外人のお店に突撃したり、またシバターに突撃したりした時。

後期は今というか、コロナにかかって全国的にある意味有名になった彼について。

へずまりゅうを考える時、どちらかというと彼個人でいい悪いを考えるのは難しいなと思った。

これはみんなが考えるべきことで、彼のいい悪いの境界線も結構「曖昧に」僕たちはしているなと彼の行動を通じて僕は感じた。

結局僕たちの行動というのも「法律」によって何となくダメだとか良いとか貼られている訳で、ひとりひとりは割とそこの良し悪しは法律とは整合していない。

ここら辺も、世界史とか歴史を勉強すると新たな知見が得られてくるよね。

何が良いとか悪いとか、結構曖昧なんだよね、というか良いとか悪いなんて「無い」と言ってもいいかもしれない。

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まず前期へずまりゅうに対して。

彼が最初に凸ったのは主にジュキヤさんとか、路上で、つまりある意味「公」の場で動画を撮っている人に対してだ。

もちろん一般的には、彼のどの行動も行けない行動、他人を邪魔している点では良くない行動と言えるだろう。

だけど前期へずまりゅうはある意味、まだ良い方であり、ギリセーフ的な空気を僕は感じた。

ぶっちゃけ彼はある意味、「マスコミ」とやっていることが同じであり、また前期へずまりゅうに関してはまだマスコミよりも良心があるというか、そこまで人のプライベートに踏み込んでいない。(それを良いと思うとはつまり、僕たちは自分を邪魔される、つまりプライベートを邪魔されることにひどくダメだと感じているのだろう)

渋谷であったりに出向いて撮影している人の邪魔というか、邪魔をして、その撮影者の本性を炙り出そうとする感じはある意味「痛快」であり、また極楽とんぼビートたけしとか、破壊することで物事の本質を炙り出そうとするような、ちょっとしたエンタメというか笑いというのも感じられた。

また凸してるのが「公」の場であることも、ギリセーフな空気を感じられた。

ただ中期に進むにつれて、彼はどんどんプライベートへと入ってしまい、そこがどんどん彼は「良くない」のではという空気を感じられたけれど、それもすごく「マスコミ」っぽく感じられたとするならば、もう「マスコミ」という存在も再定義するべき存在なのではと思った。

しかしマスコミを支えているのはその情報を求めている僕たち視聴者読者にほかならない。

ここに難しさというか、結局悪いのは誰?であり、全員が悪いし全員が悪くないように感じられる。

テラスハウスの花さんが自殺した件も同じような感じだ。

基本的に悪いのはあの番組を作った人たちであると僕は思うけれど、しかしその番組を楽しんだのは僕たち視聴者である。(僕は見たことないけど。←ww)

僕たちがああいう番組を望んだのだからああいう番組が生まれて、視聴率も取れていた。

ということは僕たちの「欲求」というか、「極度の面白さ」を求めた僕たちの欲望がああいう番組を生んで、またああいう番組を作らせるにいたる、スタッフをある意味「狂わせた」と言ってもいいだろう。(ちなみに僕は、テレビスタッフというのは完全に狂った人間で構成されていると思っている。←ww。それはいい意味も悪い意味も込めて。つまりテレビというのはまともな人間であればやっていけない職業なのである。ある意味狂わなければ、マスを相手に行動出来ない。マスを背負い込んだものがテレビスタッフでありマスコミである)

なので、話戻すとへずまりゅうという問題はそこの問題に行き当たる。

マスコミがああいう風に気持ち悪くなってしまっているのも、彼らは僕たちの欲望の表現者に過ぎないのである。

また、中期・後期に従って、へずまりゅうは完全にYOUTUBEにはいられなくなってしまう。

それで思うのは「表現とは何か」という点だ。

結局は表現とはある意味「格闘技」に近いのかもしれない。

ただの殴り合いであれば、それは喧嘩であり、警察が止めに入る違法なことであり良くないことである。

しかしリングという制限された場所であったり、様々な制限されたルールを設けることで、ただの殴り合いは格闘技という「美しいもの」になり、みなに「愛される神聖なもの」になっていく。

YOUTUBEも同じだ。

一種の、まあ、当たり前と言えば当たり前の「ルール」が存在し、それを破ったらダメであるが、シバターやラファエルとか、ギリルールを破らないことで面白さが生じ、あのように支持される場合もある。

そのルールというのが実は、かなり曖昧なのである。

いかにそのルールと戦うのが、ある意味「表現者の戦い」と言えるのかもしれない。

へずまりゅうさんはその辺りを、僕たちに示してくれたのではと思う。

またもしへずまりゅうさんのIFを考えるというか、こうしていれば違った形で表現出来たのではと僕は考える。

例えばテレビで言うと「林家ペーパー子」みたいな凸を、YOUTUBEでやったらギリセーフなのではと思った。

人のプライベートに侵入するのは、マスコミはOKでもYOUTUBEではやはりダメなのだと感じた。

だからあくまで「公」の場所で撮影しているユーチューバーなり芸能人を、もう少しマイルドに凸したらギリセーフなのではと思った。

ここでも「公」というのが判断の難しいところとなる。

その人の家までいって凸するのは、マスコミはOKでもYOUTUBEではダメなのである。(こう考えるとやっぱりマスコミって異常だなと思う。)

芸能人がテレビ撮影してる場所に向かって、ギリ撮影OK出来るラインを狙いながら林家ペーパー子的にYOUTUBEやったら面白いのでは?と僕は思った。

またそういう人物に限らず、ニュースで今話題になっている現場に行くなどして、「ニュース性」を表現したら面白いのではと思った。

まあ、これらは僕の勝手な提案で、実際全然面白くないかもしれないけれど。←ww

とまあ、彼に対する僕の感想はこんな感じです。

何となく僕たちが感じている「ルール」というのを、彼は再度僕たちに見つめ直す機会をくれたと僕は感じました。

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