8月22日「宗教と哲学。」

宗教と哲学の違い。

知識不足なので大幅に違う可能性があるが、今の時点での考え。

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8月22日土曜日。時刻は午前8時半。

大幅に違うというか、宗教と哲学の違いが、「人の本質」だなと僕は思う。

基本的に僕が尊敬しているのは「宗教」の方。

しかし正しいか正しくないかで言えば、哲学の方が正しく、宗教とは限りなく「胡散臭く」、また「正しくない」ものであると思る。

しかし、宗教の方が「支持」されてきて、またとても多くの人を「救って」いる。

宗教は水が入ったボトルであり、哲学は空のボトル。

哲学は基本、「学問」に分類される。

学問は「冷たい」ものである。

そこが宗教と違う。

宗教は限りなく胡散臭く、また「嘘」でもあるが、多くの人々に「温もり」を提供するし、またその温もりは大抵、「夢」と呼ばれる。

宗教と哲学。

その2つは役割が全く違う。

そもそも「学問」というのは悲しく、冷たいものでなければいけない。

哲学が所属する学問というのは、限りなく「非人間」でなければいけない。

徹底的に「感情」を排除して、客観的事実に基づいたものが「学問」である。

それゆえ等しく僕たちに「事実」を与えてくれるが、それはとても有益なのだが、事実は僕たちを温めることはなく、事実は僕たちを救うことはないのである。(一部語弊あり)

救うことが出来るのは「心対心」であり、そして人の心というのは、「限りなく胡散臭い」ものなのである。

宗教が胡散臭く感じるのはここにある。

人の心の本質は、限りなく胡散臭いものである。

それを説明しようとすると、どうしても怪しい、信用できない、嘘っぽい夢っぽい話になる。

人の心は、客観的事実に出来ないし、事実として捉えようとすると、そこに温もりはなくなり、心では無くなる。

よってだから、哲学で人の心を救うことは出来ない。

それは中身が入っていない「空のボトル」だから。

哲学はそういう性質である限り、その事実が100%事実だとしても、多くの人に「信頼」されたり、「理解」されることはない。(多くの人に、というのがポイント。少ない人にはその空のボトルを愛する人もいる。そういう人はおそらく、哲学をある意味宗教にしているのかもしれない。哲学に愛を感じているのかもしれない。)

歴史を考える上でだから、重要視するのは当たり前に哲学ではなく宗教である。

何故なら宗教の方が多くの人に支持され、多くの影響を与えてきたから。

人は「実」しか愛せない。

ちょっと話が逸れるけど、キリスト教、仏教、イスラム教の中で僕が興味がそそられるのは、イスラム教が「偶像」をダメとしている所である。

なのに、ここまで大きな宗教になったのは凄いと思う。

偶像があるからこそ、宗教って大きくなったと僕は思っている。

だって、「教え」だけでは掴みどころないでしょ?

例えば日本だと「奈良の大仏」とか、仏像とか、ああいう「実像」があるからこそそれに対して「祈ったり」、信仰できる部分があると思う。

偶像なしで、大きな宗教になるのって、イスラム教って凄いなと思う。

話また少し逸れるけれど、「漫画」というのも僕はそういう、「偶像的役割」の一種だと思っている。(ディズニーもそう。「推し」という言葉も信仰の一種。)。

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とまあ、そんな感じで宗教と哲学は違い、僕はそれほど哲学は重視していない。(というか、ただ単純にあんまり頭に入ってこないだけ。←ww)

哲学を捉えるにはまずは、宗教を捉えねばならず、また宗教を捉えるためには、哲学に触れなきゃいけなく、つまりどっちも必要であると思う。(学問の中で唯一心を扱ってるのが哲学だから。←これ半分間違い。)

またちなみにだけど、「新興宗教」というのも、僕は基本的に3大宗教と変わらないと思っている。

新興宗教に足りないのは、ただただ「歴史」。

2000年後も今ある新興宗教が支持されていて、また世界中に支持されているのなら、それは立派な宗教だと思う。

結局今の3大宗教も宗教である限り、「胡散臭い」ことには変わりない。(宗教は一生胡散臭いものであり、胡散臭くなければいけない。例えばディズニーとか、ちょっと胡散臭いよね。)

胡散臭いものだけれど、3大宗教は歴史上これだけ支持されてきたものであれば、認めざるを得ないものなのである。(←上から目線やなあ~。←ww)

歴史は実績となっていく。

古い創業の会社が信頼されるようなもの。

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今日はこんな感じである。

宗教にとって切っても切り離せない「権威化」というのを、またいつか扱いたいと思ってる。

それでは、よい土曜日を。←www

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