8月23日「依りと祈り。」

「祈り」についてと「依る(≒寄る。拠る、そのた「よる」)」について。

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8月23日日曜日。時刻は午前11時半。

「祈り」と「依る」。

最近、この二つの言葉が僕の脳裏によく浮かぶし、この二つの言葉がおそらく、世の中を「解く」カギとなると思っているので、この2つの言葉が最近僕の頭によく浮かぶ。

「依る」の方が、どちらかと言えば分かりやすく、また理解しやすい。

「祈る」の方はちょっと難しく、「依る」が行われてしまえば必要ないと言えば必要ないのだが、より「依る」ために、少し雑に言えばより「高度」になるために、「祈る」というのは必要であると思う。

「祈る」方は少し見えにくく、実際祈りに近いことをしていながら、僕たちはそれを「祈り」に分類していなかったり。

依るをより寄せた結果、「祈り」になる感じ。

(ここまでおそらく、何言っているか理解してもらえないと思うが。←ww)

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まずは「依る」である。

これは「好き」で置き換えてもいいし、自分が興味があるもの、自分が好きなもの、自分が熱中しているもののことを僕は言っています。

僕たちは何をして生きているか。

そりゃあ生き述べるために社会に出て働くことが必要と言えば必要であるけれど、時間的空間的に「自由」になった時、僕たちがすることと言ったら「したいこと」・また「好きなこと」「興味のあること」である。

自由な状況で、僕たちは僕たちの好きに「寄っていく(≒依っていく。酔っていく。)」

この状況、「無」な状況にいるのではなくて、自分ではないどこかにもたれかかっていく状況を、最近の僕は「依る」と言っている。

それはつまり、自分ではない何かの中に入っていくことであって、それはつまり、何かの「コミュニティー」に入っていくとも言える。

とある趣味を自分だけでやるのではなく、同じ趣味を語り合ったりするのも楽しみであったり。

その趣味の方に寄っていった同士で「依る」、コミュニティーの中に入る。

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自分ではない他者の方に寄っていき、そこで温もりを感じたり、果ては「自分の存在」や「自分のアイデンティティー」を感じている状態を、僕は「依る」と述べている。

この「依る」というキーワードを元にして、世の中や社会を最近の僕は見ている。

すべての言動の裏にはまずはその言動がどこのコミュニティーに「依っているか」でまずは分別する。

例えば2ch(5ch)の言葉は書き込みしているその人自身よりかは、2chというコミュニティーがまずはあって、その書き込み言葉が生まれてくる。

コミュニティーが生んだ言葉。

依った結果の言葉。

インターネットなり、テレビなり雑誌なり、果ては現実の街中あるく人であったり、世の中には「言葉」というのが溢れている。

その言葉を理解するために、その言葉が生み出されているコミュニティー、つまり「依り場所」をまずは見極める。

そういうのを、最近の僕はやっている。

一人一人の言葉を一人一人で受け止めるのではなく、コミュニティー的に受け止める。

依り場所を探す。

基本的に大多数の人は「無人」である。

無人とは大雑把に言ってしまえば「何者でも無い人」(でもまあぶっちゃけると、すべての人が何者でも無いのだけれど。ここら辺はいずれ詳しく語る。)

無人の人の言葉をダイレクトに受け取っても、理解出来ない。

人の言葉を人として見るのではなく、その人が何に「依っているか」でその人を見る。

最近の僕はそんな感じである。

また、僕にとって、僕は、何を「依り」にしていこうかも考えている。

僕はどんなコミュニティーにいたいかも、最近考えている。

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「祈り」について。

依った先での、尊敬主に対する「敬意」といった感じか。

何かに依っていて、何故それに依っているかを考えた場合、中心的信じるべきもの、支柱的存在が依り場所にはあるはずだ。

その中心のものに惹かれているから、依りたいわけで、それが「絶対」である。

その絶対に対する僕たちの行為全般は、「祈り」という言葉に置き換えていいのではないか。

その人やそのキャラクターのことを思うと、とても幸せになっていく。

その人やそのキャラクターが日々脳裏に浮かぶから、自分の「存在」が保たれている。

つまり、祈りとは必ずしも手を合わせてやるのではなく、どちらかというと僕たちの日常の中でやっている行為。(行為というか、頭の中の想い・空想)

それを実際に手を合わせて祈ると、より「祈り」に近くなるというか・・・。

また、これは言ってしまえば食事をする時に、「いただきます」で手を合わせるのも一種の「祈り」だと僕は思う。

食事という、僕たちの生きるに欠かせない行為をする上で、食べ物に感謝し、食べ物に依って、食べ物を尊う。

すると自然に手を合わせる、つまり祈ってしまうような。

またお墓参りの際の手を合わせる行為とかも、同様である。

「依る」存在、感謝すべき存在、自分の存在を支えている存在、すべてを大まかに含んで、僕たちは日々祈っている。

「依り」と「祈り」。

これは以前から述べている歴史とは「食糧と宗教」の「宗教」の根本的部分であると僕は思っている。(食糧が人間外のもの。宗教が人間内のもの。食糧が車のガソリン。宗教が実際に車を走らせること。心の様子・現れを僕は総括して「宗教」と述べている。心が「依った」ものが、宗教。心の集合知が宗教。)

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そんな感じで、「祈り」と「依り」というキーワードを意識して、今後の僕は生きて行こうと思う。

彼は何に依っているか。

彼は何に祈っているか。

また、僕は何に依っているか。

僕は何に対して祈りたいか。

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