「死」というもの。「夜」というもの。「一日」というものについて書いていく。
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9月4日金曜日。時刻は午後11時。
僕の人生、僕の生きるというのは、色々捉え方があるけれど、よく思うこと、もしくは結局は、の話をすると、「夜とは何か」、もしくは「死とは何か」を思うことに終始しているような気がする。
(笑)。
「夜」というのが、なかなか解けない。
もしくは、夜というのはある意味強制的に、解く(≒夜とは何か)ことを強制させられている気がする。
何故か。
何故なら夜、つまり「一日の終わり」というのはおそらく、「死」だからだと思うからだ。←は?←www
・・・。
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前提として、一日、つまりとあるその日、とある一日というのは、「僕たちのすべて」だと僕は思っている。
つまり、人生とはただ、一日の繰り返しである、と。
人生とは長い長い何十数年の話ではなく、ただ単純に、一日の繰り返しである、と。
一日の「積み重ね」、では、僕はないと思う。
一日と一日は「繋がっていない」、と、僕は考える。
今日と明日は繋がっていない、今日と明日は関係していない、今日とか明日とかの概念すらない、と僕は考える。(我ながら、面白い考えだ。←ww)
何故か。
それは、「睡眠」があるからだ。
睡眠というのはおそらく、僕たちにとって一番の、「何か」だと思う。←wwww
は?っていう、話だが。
なんていうかな・・・。
睡眠があることで、僕たちはすごく、「迷っている」とも捉えられるし。
睡眠があることで、僕たちは「今日という一日」から逃れられない感じがするし。
睡眠があることで、僕たちはまた、繰り返してしまう気がする。
睡眠とはある意味、一種の「死」だと僕は考える。
僕たちが一番、僕たちではなくなる。
もしくは、僕たちが僕たちを考える必要がなくなる。
もしくは、僕たちが僕たちを「忘れていく」。
もしくは、僕たちが僕たちから「解放」されていく。
もしくは、僕たちが僕たちから「失くしていく」。
睡眠は死であり、また死は(≒睡眠)は人にとって、唯一の「救い」であると僕は考える。
救われたと思ったら、また起きて、また絶望の今日が始まる。
せっかく自分から離れられると思ったら、せっかく自分を忘れられると思ったら、また一日の「螺旋」に強制的に加わっていく。
生きるとは罪である。←www
生きるとは、何を奪ったり、何かを「喪失」させなければ成立しない。
基本的に僕は、生きるとは苦しいものであるという前提を持って生きるを見ている。
僕たちの生きるは、誰かを苦しめて成立しているのだから、僕たちもまた、苦しむのが「対等」であると。
そんな中、苦しみ前提の生きるの中、時々楽しいことがあっていいよね、的な。
どちらかというと僕は「性悪説」というか、自分たちがして欲しくないこと(≒何かを奪うこと)を日々しているのだから、それは「悪」だよね、的な。
死ぬことで、眠ることで、その「人間性」から離れられるというか。
だから、そんなわけで、僕は「夜とは何か」を日々考えようとするが、結局それは分からないので、考えないようにしている。←ww
夜の時間を生きるとは、死の中を彷徨っているように感じる。
早く眠ればいいのに。
夜の時間はだから、現世と常世?(死後の世界。彼岸?)を行ったり来たりしている気がする。
昼の時間に感じたことが、すべて「無意味」に感じ、それが「加速」していくような。
そういう時、すがる対象になるのは、『空っぽな愛(≒肉欲)』であったりする。
何も無い。
終われない。
終わりたい。
虚無。
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と、いった感じで。
こういうことを思う時は、大抵「天気が悪い日」だったりする。
雨の日だったり、曇りの日だったり。
天気が悪いと、こんな感じの僕が強くなる。
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・・・。
とまあ、そんな感じで、もう寝ます。
おやすみなさい。
・・・・・。
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