9月10日その2「虚しさについて。虚しさを認める。幸せについて。」

「虚しさ」は正義か悪か。

もしくは、「虚しさ」は味方なのか、敵なのか。(寝てないんかい。←ww)

・・・。

9月10日木曜日。時刻は午後10時半。

「虚しさ」。

にゃはは。

僕は、僕の場合は、それをどちらかというと「味方」だと捉えている。

何故なら、おそらく僕は、そこまで「幸せ」ではないと感じるから。

僕は・・・。

僕は、人というのは、それほど幸せではないと思っている。

もしくは、人に対して自分が幸せだとアピールしている人は、かなり「不幸」だと感じている。(しかも自分が不幸だと感じてないヤバさ。)

自分がそれほど幸せではない、ちょっとした不幸な方が「良し」と僕と思っているのは、「虚しさ」というのをある程度知っているから。

幸せな人ほど、「虚しい」ことに怯えている。

もしくは、幸せそうな人ほど、虚しいことに「落ちる」ことに恐れている。

僕は、今の時代を生きている人々は、それほど「幸せ」は変わらないと思っている。

何故なら、今の時代を生きている人は、もう十分に、生きる幸せ、つまり「権利」を授かっているから。

だから、ある意味、今の時代は「幸せ過剰」もしくは、「権利過剰」といってもいいのかもしれない。

だから、何かある意味、病気とか血筋とか以外で、くだらない・小さなことで悩んでいて、それを不幸だと言っている人があほらしく見える。(病気や血筋に関しては、例え今の時代だとしても、結構不幸といってもいいと僕は思う。特に親がヤバいと、かなりきついと思う。)

今を生きている人は、そこそこ幸せである。

そしてみな、「虚しさ」を感じている、もしくは、「虚しさ」を隠して生きていると僕は思っている。

すでにもう、「人の戦い」というのはある程度終わっている。(権利とかの戦い。)

「自由」とか、「平等」とかを、中世以降の人々が戦ってくれたおかげで、今を生きる僕たちはもうすでに満たされているんだ。

だからもう、「落ちる」しかない。

どうしようもない僕たちは、幸せを幸せを認識できぬまま、「酔って」、あえて不幸を「演じる」ことで、不幸に「依ろうと」している。

・・・・。

・・・・。

だから、今の時代というのは、どう「虚しさ」と生きて行くかという時代なのかもしれない。

人がやりたいこととか、人の望みというのは限られている。

だからある意味、今の時代というのはどうにも、「生き過ぎる」・「長寿すぎる」時代なのだ。

幸せの絶頂でその人生に幕が閉じればいいものを。

とある望みを達成したところで幕を閉じればいいものを。

続けなければいけない。

くだらなく、虚しく、今を生きる人たちは生き続けなければいけない。

そこに何とか「生きる意味」とか見出そうとするけれど、意味がないというか、「虚しさの連鎖」からは逃れられなくて、面白いなと思う。

すでにもう、僕たちは終わっている。

すでにもう、僕たちは自由で平等であるのに、さらに誰かとの「差」を見つけようとして、自分を追い詰めたり不幸だと思ったりする。

すでにもう、十分なのに。

「虚しさ」とはつまり、まだ何かあるのではという「妄想」もしくは「幻想」であったりする。

無いよな、別に、それ以上は。

どんどん満たされようとする。

どんどんさらに幸せを追加しようとする。

「虚しさの連鎖」にハマっていく。

「幸せの連鎖」にハマっていく。

そういう意味で、だから、もう、あまり「幸せ」に拘らない方がいいのかもしれない。

毎日毎日、僕たちはリセットされていく。

今日幸せだったとしても、明日は分からない。

また一から、幸せを積み上げていかなくてはいけない。

僕たちは一日をリピートしている。

一日は一日でまたリセットされる。

「幸せ」になるのは、ある意味馬鹿らしい。

また幸せになるために、「努力」しないといけないから。

また幸せになるために、誰かと「比較」しないといけないから。

それほど幸せではない方がいいのかもしれない。

「虚しさの連鎖」を認め、虚しさを享受し、ある程度不幸せな方が幸せなのかもしれない。

何かを「得る」ということは、何かを「失う」ことを意味する。

結局「0」に、僕たちはまた戻っていく。

疲れるんだよなあ、日々得ようとすることは。

『虚しさを認めた方がいい』と、僕は思う。

僕たちの戦いは、もうある程度終わっている。

もう、今の時代は「消化試合」である。

もう十分、頑張ったよ。

おやすみなさい。

・・・・。

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・・・・・。