死ね。
と言いつつ、まあまあ調子はいいです。
というか・・・。
・・・。
ブログ内で何度も述べているけれど、調子が悪い日を乗り越えた後、精神がすごく普通な状態でも「健やかに」感じられるというか、普通なる当たり前の幸せを実感するというか・・・。
月曜から水曜まで、かなり辛かったから、こうして普通な状態に戻って、まあまあ幸せに思える。
ふう・・・。
色々「想い」が溜まっているけど、どれから吐き出していこうか。
とりあえずまずは「部活」について。
1か月前ぐらいに、自分が思うこの部活の「在り方」っていうのはもう大体固まっていて、もう論ずることはないと述べたけれど、それに補足する感じて、今回は述べていこうと思う。
基本的に何にせよ、まあ、とりあえずアウトプットや自己表現、もしくはサービスというのは、物理的に例えると、「お店」、特に分かりやすく例えると商店街や街中の街の一つの「お店」と考えればいいと思う。
お店というのは、飲食店であったり、雑貨であったり、家電量販店であったり散髪屋であったり。
自分が今やっている部活というのも、そのお店に例えると自分的に理解しやすいなと思う。
そこで重要なのは、そのお店がとりあえず「繁盛」を目指すのであれば、やはりまず大切にしなければいけないのは「お客」であり「客目線」である。
例えばラーメン屋では、自分の味へのこだわりとかは、全くいらなくて、そのお店の地域に住む人々のニーズに合った商品、つまり「値段」であったりサービスでなければいけない。
客ファーストというか、つまり自分本位になってはいけない。
自分の心なんていらなくて、客の心が「楽しい」、そうあればいいというか・・・。
今のところ、僕の部活ももう少し賑やかになって欲しいと思う。
そのためには自分の理想どうこうではなく、客、つまり「他人」がどう喜んでくれるか、が大切になるなと思う。
今の僕の部活のサービスがどういったものか、僕自身いまいち掴み切れていない所がある。
このサービスが必要とされているのか。
このサービスが客は求めているのか。
このサービスは今後より客を呼べるのか。
今のところ、少しずつ、本当に微々たる成果を日々出てはいるが、僕が思う理想の「繁盛店」になるかは、まだ分からない。
ただ、突き詰めていったら、この部活の形が「混ざり合う」、様々な「色彩」を出すことが出来れば、僕は面白い・楽しいと思っている。
そして、今日はその部活の中身というか、中身は僕はどう捉えているかの話をしていこうと思う。
分類的には、何というのだろう・・・、「エッセイ+私小説」の形が、面白い「核」のような所にあると思うが、その核に到達しないまでも、入りやすいというか、「誰しもが表現出来る」点が、この部活の特異な点だと思う。
だからこそ、その点があるからこそ、僕が唐突に「勧誘」しても、何人かに1人はそんな唐突な顔も知らないクソ僕の意見でも好意的に受け取ってくれる。
その点はこの部活の「いい面」だと思う。
まずは入りやすいというか、とっつきやすさ。
そこに、まずは「救われている」。
そして、その部活の中身というか、その本質は何かということだけれど、それは、このブログでも何度も述べている議題である、『祈りと依り』が大きく絡んでくる。
「祈りと依り」とは簡単に言うと、自分が日々、何に勇気づけられて生きているか、その「心の支え」となるものを明確にしようとする議題である。
好きなアーティストがいるから、自分が生きている心地がするというか、自分の「アイデンティティー」がそのアーティストを好きな点にある。
好きなアーティストが好きな自分が好き。
自分という存在は、何によって構成されているか。
誰に影響を受けているか。
誰を支えに生きているか。
つまり、誰に依っているか・誰が祈りたいほど好きか。
それが大まかな説明の「祈りと依り」である。
そしてこの部活もまた、そんな「祈りと依り」が大きく絡んでいる。
エッセイというと、書き手は、そのストーリーの中にいないというか、そのストーリーをある程度「俯瞰」して書かないといけない。
しかしこの部活においては基本、書き手がそのストーリーの中にいる。
自分を「フィクション化」させるというか。(ノンフィクションという言葉は、あってないようなものだと僕は思う。何かを発信する場合必ず、発信者の「手」が加わってしまうので、完全なるノンフィクションというのは存在しない。)
この部活はある意味、自分を物語の「殻」に入れてしまう。
その点の不利な点は、読み手が入りにくい点である。
エッセイの場合、読み手を誘導するというか、読み手に出来るだけ理解されるよう書かれる。
しかしこの部活の場合、読み手はとりあえず置いておいて、自分を「白熱化」させるというか、自分さえ自分が分からなくなるほど、自分をストーリーに落とし込む。
それで何が行われるかというと、ある意味、自分の「美化」である。
ストーリー、つまり「物語」というのは、人間の究極の産物だと僕は思う。
人類の歴史は食糧と宗教と何度もこのブログで述べているが、宗教というのは人の根幹の「ストーリー」を綴ったというか、面白いから、多くの人を惹かせたから、ここまで人類に愛されたというか。
そのストーリーが何故愛されたかというと、ストーリーが「美しいから」
美しいものが、人の中で「最強」であると僕は思っている。
美しいものが、唯一、罪に対する「償い」というか、「赦し」というか。
この部活において、登場人物は「二人」いる。
それは書き手自身とそして、書き手が「祈る対象」もしくは「依る対象」である。
この部活の特異な点は、登場人物を「二人」に絞ったこと。
これが、一番の特徴であり武器であると僕は思う。
他者性。
自分ではなく、他者を想う、もしくは他者との自己との対話で二人の物語を「美化」させる。
人は一人では生きられない。
人が美しいと感じるのは、人が必要とされた時であり、人を必要としたときであると僕は思う。
他人を思う、他人を愛する、他人に愛されるというか、いいと思う。←ww
それが、この部活で強調される点は、強い点だと思う。
基本的に書き手が、綴る相手に対して尊敬であったり、強い想いを持っている、つまり強い「依り対象」である。
二人に絞る。
そしてその物語は不特定多数に向けてではなく、どちらかというと独りよがりな、ぶっちゃけ書き手さえ、その二人の関係の物語に対して結論づけられれば、それでいいというか。(これがプラスな点でありマイナスな点)
不特定多数に向けてではなく、まずは自分、そしてそんな自分が依っている相手(他者)。
その姿の美しさを追うのが、この部活の形ではないかと思っている。
ただ、そのままのこの部活の形ではあまりにも「クローズド」なので、そこでもう少し読み手を意識した、「私小説視点」であったり、読み手がその描かれる映像が読みやすいような書き手が、繁盛には必要とされるのではないか。
いずれにしても、この部活はすごく分散型共有コミュニティーというか・・・。
例えとしては少し違うかもしれないけれど、攻殻機動隊の「笑い男」的な。
どういうことかというと、一つの言葉で繋がっている。
その言葉とは、「#〇〇」である。
その言葉をみなである意味「信仰」し、寄り合いましょうというのがこの部活の形であって。
集中的に集まるというよりも、分散的に「#〇〇」に集うというか・・・。
それを可能にしているのはツイッターであり、また「#〇〇」という言葉である。
だから、僕が今しようとしているのは、この部活の活動をすることで、「#〇〇」の言葉の強化というか、その言葉を「磨く」。
もしくは、その言葉を僕が思っているように『創る』と言った感じか。
例えば、「おっぱい」という言葉だけで、男は色々なおっぱいを詰め込んで「夢」を見るというか、おっぱいという言葉を聞いただけで「幸せ」になるように。
「#〇〇」に相当する「例」を多くみんなで見ることで、「#〇〇」を「意味化」させる。
意味を加える。
それが主に、今僕がやっていることになっていると思う。
まあ、難しいように書いたけど、これをまだ書きたくなかったというか、まだ「全然」なので。
こういう理想に少しでも近づければいいと思うけど、如何せん主役は僕ではなく、すごく他人頼りというか、僕は「空(から)」であり、「ビラ配り」しか出来ない。
だから、ある意味、共感してくれる人たちにすごい「救われている」。
例えそれが日々微々たる結果だとしても、微々たるものだとしても、微々たる結果があるわけで、救われている。
・・・・。
・・・・。
とまあ、そんな感じで、長いな(笑)。
あー、疲れた。
寝ます。
おやすみなさい。
・・・・。
・・・・。
・・・・。
9月17日木曜日。時刻は午後10時過ぎ。