9月22日その3「言葉とはマウントを取るために使われるものである。」

言語とは他人に対して「マウント」を取るために使われるものだと思う。

同じ意味合いで言えば、「優位性」を示すために・表現するために、言葉は使われる。

人の根本的な心とは何かを問うた場合、やはり「不安」という感情があると僕は思う。

心もとない。

(心が)空っぽ。

不安というのは、何だろう・・・、僕たちが生きる上で一番の「障害」になるというか・・・。

『何かが足りてない』という感情が、ここまでの人の歴史を生み出してきたというか・・・。

その足りて無さを指摘する、そのために言葉があると僕は思う。

ツイッターとか、もう毎日それだ。

自分の方が「優位」であるとか「上位」であるとかのオンパレードだ。

だからすごく、ツイッターは「人らしい」なと思う。(話少し逸れるけど、今のツイッターって実名で2chやっている感じだよね。)

言葉とは何か欠けているとこを補填するように使われる。

もしくは、何かが欠けている時僕たちは基本的にまずは言葉を持ってしてその欠けを埋める。

なので、言葉とは常にそこに、「醜さ」を含む。(醜いとは言いすぎかもしれないけれど、まあ、間違ってはいない。)

基本的にみんな、馬鹿である。

それはつまり、みんなどこか必ず欠けているのである。

だから、大声出しても意味がないというか、深淵を除いているものは・・・、と同じ話になる。

そんなに大差がないというか・・・。

言葉を使っている以上、みんな「浅はか」であることを認めている感じがある。

だから、お喋りな奴はあまり信頼出来ないのかもしれない。

喋れば喋るだけ、その人の「不安」が溢れ出てしまうから。

・・・・。

・・・・。

・・・。