「言葉というものについての僕の見解」
短い話になりそうだが・・・。
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4月16日金曜日。時刻は午後6時。
言葉というもについて、僕が依然述べてたのは、例えばあまり信用できない、とかだと思う。
まあ、それはそうなのだが・・・。
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そもそもの話をすると、言葉とは何かについて。
僕は、言葉というのは、「音ありき」であり、「音から生まれたもの」・「音から始まったもの」であると考える。
なので、言葉というのはそこに意味があって、その意味を言葉の中に単略化することで、今は便利に使われている。
そうなんだけど、そもそもは「音」であり、それはその言葉の意味どうこうよりも先立って、存在している。
なので、言葉にまず、意味を持たせるのは危険というか、違うよね、って僕は思う。
単純に、言葉とは、音を運ぶもの。
意味ではなく、音を、ただ運ぶものであり、何ならちょっとした「テープレコーダー」であったり「MD」であったり「ipod」であったり。
意味なんていうのは、ないというか、あまり価値がないものだと僕は思っている。
意味どうこうよりも、言葉というのに音が内在していることが、すごく価値のあることなんだって。
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そういう意味でいうと、同音の言葉、例えば「アイ」であれば「愛」や「哀」や「相」はほとんど同種、つまりアイ≒愛≒哀≒相であると、僕は思っている。
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言葉は意味ではなく、音を運ぶもの。
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ここで少し話逸れるけれど、何故音楽というのがあれほど僕たち人類の心を打つかというと、音楽というのがすごく、その言葉の音を引き出しているからだ。
ここら辺は、「眠れない人のための音楽解析」である程度語ったけれど。
言葉は本来、音を伝えるもの。
音楽はだから、その言葉の音を最大限引き出している。
音楽の何がいいかというと、それは言葉×音であり、それは言葉ありきである。(一般的な音楽、洋楽、邦楽ね。クラシックとか、歌詞がない音楽については、また別に機会で話す。)
つまり、だから、「いい文章」というのは、つまり、そこから「いい音色」が聴こえてくる文章である。
文章で何か、意味を伝えたいのではなく(伝えることも重要だけれど)、意味を伝えるより大切なことは、その文章で使われている言葉を、上手く奏でられるか、その言葉の音を引き出すことが出来るか、であったりする。
つまり、僕が言葉が信用出来ないというのは、「音があまりしない言葉」はあまり信用できない、が正解に近いのかも。
心地いい言葉は、信頼出来るし、どちらかというと今生きていて触れることが多いのは、圧倒的に音があまりしない言葉・いい音をあまり奏でない言葉・言葉の本質を理解してない言葉、であったりする。
僕たちは、言葉を使って、コミュニケーションしたいわけではない。
単純に、いいリズムを、いいサウンドを、言葉から聴きたいだけであると、僕は思う。
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