10月9日その2「自分が信じているもの。及び「辿り着くところ」、もしくは、「戻るところ」についての考察。(「部活」の話も絡む)」

「自分が信じているもの。及び「辿り着くところ」、もしくは、「戻るところ」についての考察。(「部活」の話も絡む)」

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最初に答えを述べておくと、『僕は人を信じない』

もしくは言葉を変えると、「人は結局、一人である」という、以前から述べている「人の最小単位は二人である」ということの矛盾したような信念を、僕は持っている。(相変わらず文章下手)

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10月9日金曜日。時刻は午後10時半。

僕は、「結局は」、という話が好きだ。

それはつまり「終わり」であり、しかし僕たちは死ぬ以外の終わりは実質ないから、その終わりとは、その一時的な終わりとはつまり、「寝る直前」にあると思う。

僕はそこを、「居場所」としていたいし、僕はそこを、最終的に「依るところ」としていたい。

だから、何だろうね・・・。

僕は一般的に言われる、「みんな幸せになってハッピーエンド」というのがめちゃくちゃ嫌いというか、それは嘘というか、とりあえずは、「終わりの形」としては、『間違っている』と思う。

つまり、終わりとは「一人」である。

それは死もそうだし、寝る直前もそうだ。

例え恋人とか、二人で寝るにしても、僕たちは最終的に、「心で死ぬ」、つまり寝る直前は自分の心が、今日を終えなければいけない。

そのためには「目をつぶる」必要があるし、目をつぶり、眠りに落ちるその瞬間、僕たちは確実に「一人」にならなければいけない。

なので、人は最期は一人である。

だからだろう・・・。

僕が、みんなと一緒に幸せになってハッピーエンドを毛嫌いしているのは。

それは、真のエンディングではない。

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最終的な拠り所、自分が最も安心出来る場所とは、一人であらなければいけない。

そうなのだけれど、例えば、眠りに落ちる瞬間、最愛の恋人と寝ていると「幸せ」であるように、その一人になる最後の瞬間までは、僕たちは「誰か」といたいと思っている。(少なくとも僕の場合。)

なので、僕たちの拠り所というのは、「みんなが集まった後、最後は加速度的にまたみんなひとりになっていく」、というのが正しい形であると僕は思う。

これ、めっちゃ重要な。

無限大から、また「1(もしくは0)」へ。

最終地点を、見誤ってはいけない。

最終地点には、誰もいないのだ。(自分以外)

しかしその本質を探るため、その過程(眠る直前まで。人生で言えば死ぬまでの過程で)では、僕たちは多くの「他者」を必要とする。

そしてこの話は今やっている「部活」にも絡む。

僕が今作ろうとしている場所は、「静かな場所」にしたいと思っている。

それは教会であったり、美術館であったり、図書館の雰囲気に近い。

また、最終地点の近くに近い。

最後に誰と、君はいたいか。

最期の近くに誰と、君は喋りたいか。

どんなに人気者でも、どんなに名声があっても、僕たちは結局、一人のキャパシティーしなないのである。

そこを、気にした方がいいと思う。

受け止める自分は、とても弱く、とてもしょぼい。

何故なら、僕たちは一人につき、一つの「頭(心)」しかないから。

それはいわば、「エンジン」のようなもので、自分一人しか支えられなくて、また、自分一人すら支えらない時もある。

要は、とても脆いのである。

結局は人は、最終的の近くでは、一人にしか依れない。

結局人は、最終地点の近くでは、一人を想うことしか出来ない。

だから、人の最小単位は二人である。

だがその最小単位は、終わりのその瞬間、「1」もしくは「0」に還っていく。

眠りにつく(≒眠る。死ぬ)は、とてもこわく、とても不安だ。

しかしそこが、僕たちの唯一の「拠り所」であり、そこが唯一、「安心出来るところ」であると僕は思う。

「静かな場所」。

そこには何も持っていくことが出来ない。(ここら辺、noteの頭痛男の生活でも述べたけれど。)

僕の部活はそういう、「静かな場所」にしたいと思っている。

人が最後に行きつくところの近くの、最後に一番話したい相手と交わす場所。

僕たちが一番したいのは結局、「コミュニケーション」であり、「会話」であると僕は思う。

それをすることによって僕たちは、「自分を見つける」ことが出来るから。

一人に戻るその間際の、「最後の二人の場所」。

それが、この部活であると僕は思っている。

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そんな感じで、寝ます。

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