12月9日「(人の、もしくは自分の)身体性を愛せ。」

「(人の、もしくは自分の)身体性を愛せ。」

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12月9日水曜日。時刻は午後7時。

身体性を愛せ。←ww

僕は、やはり「孤独」というのは良くないと思う。(まあ、当たり前の話だぞ。←ww)

それの何がいけないかって、孤独になると普通な人はおそらく、「見えなくなってしまう」から。

それは、他人も社会も、そして自分も。

天才であれば、まあ、それは勝手にしろという話で、別に孤独でもいいと思う。

しかし平均的な、一般的な人にとって孤独は、とても「幸せ」から遠ざかってしまうと僕は感じている。

孤独になることで陥りやすいのが「身体性の忘却」。

つまり、かなり「自分の頭で」、つまり「思考だけで」生きてしまうのだ。

僕は思考、つまり「想う」というのは、人にとって「おまけのようなもの」であるとさえ思っている。

ぶっちゃけ、いらないと言えばいらないというか、まあそこまで言うと誤解を招くからちゃんと説明しないといけないんだけど、出来るだけ思考しないで、出来るだけ「身体性」に沿って生きた方が、生きれると思う。(例を出すと、「体育会系」の奴の方が、朗らかに生きられるじゃん。基本、身体なんだよね、やっぱ、生きるというのは。)

「身体性」。

それは筋力とかもあるのだけれど、その「像」というか、自己確認というか、他人から見ればその人に対する認識というか・・・。(は?←ww)

何だろう・・・、つまり「現物(げんぶつ)」が大事なんだよね。

物質としてそこに自分の身体があることが、とても重要であると思う。

話少し飛んでいるようで、しかし本質的な話をするけれど、「セックス」というのは、そういう「身体性の確認」という意味で大きな意味を持っていると僕は思っている。

まぐわることで、他人の身体を感じ、また自分の身体の現物を感じ。

そういう「身体性の確認」ってやはりとても重要で、それによってやはり自分の「生」であったり「死」であったりを、もう一度再認識かつ再構築がなされると思う。

身体性の確認。

及び身体性の更新。

「心」というのは、「幻」に過ぎない。(かっけ~~。←ww)

しかしその幻を、僕たちは永遠に追い続けるのだけれど。(かっけ~~。←ww)

その追求こそが、生きるということ、つまり「心を探し続けること」が、生きるということにもなり、そのためにもう一度自分の「身体性の確認及び見直し」が大事であり、つまり何が言いたいかというと、「群れろ」ということであった。

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