「狭い世界のアイデンティティー」と、「腕は2つしかない」の2つについて話す。
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12月20日日曜日。時刻は午前7時半。
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「狭い世界のアイデンティティー」について。
元の言葉は、まあ別に言葉そのままの意味何で元とかはほんとはないのだけれど、漫画家の押切先生の漫画のタイトル。
この、「狭い世界のアイデンティティー」という言葉が最近自分の中ですごく気になっていて。
それで思うのは、アイデンティティー、つまり「自己」というのは、「狭い世界」で生まれるものであると、思った。←ww
「狭い世界」。
それはどちらかというと実際の狭さ・大きさはあまり関係なくて、つまり「区切られた世界」、という意味だろう。
しかしその区切られた世界を他人から見たら・その世界に属していない側から見たら、「狭い」や「閉鎖的」と感じられる。
分かりやすく言うと「企業」であったり、また「国」もそうであろう。
企業とか国は、本来僕たちは生まれもってして一人一人の人間なのに、区切ることで、つまり従業員とそれ以外、その国に属している人と属していない人と区切ることで、その中にいる人たちに「アイデンティティー(自分がそこにいる感覚・自分がそこにある感覚・自分が何者かである感覚・自分が赦される感覚・自分が認めらえる感覚)」という、おそらく僕たちにとって一番「欲しいもの」を付与していく。(おそらく、僕たちが生きる上で一番なくてはならないものはアイデンティティーだと僕は思う。「見えていない承認・気づかないけど無意識に自分に与えられれていると思っている誰かからの承認」が、おそらく僕たちが一番欲しいものであり、なくてはならないもの。)
アイデンティティーは区切られた世界で生まれていく。
アイデンティティーは「狭い世界」で誕生していく。
例えば、「2ch」というものを昔ひろゆきという人が作って、その中に人が入ってきた。
2chが誕生する以前は「何者」でも無かった人たちが、2chが出来て2chというコミュニティーに入ることで自分がそのコミュニティーの中に属しているという「安心感」が生まれ「承認」が付与されて、「2chねらー」という人たちが誕生していく。
しかし2ch誕生前も誕生後も、その人たちは何者でもない。
しかし誕生後、2chねらーという薄い帰属意識のもと、自分のアイデンティティーが少し与えられ、「安心」していく。
2chねらーである人と2chねらーでない人が生まれていく。
別にお互い、何者でもないのに。
自分が2chねらーであるという帰属意識・アイデンティティーに守られていく。
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アイデンティティーは、おそらく、『一人では成立しない』。(つまり大いに「他者性が絡む問題」)
アイデンティティーは区切ることで、アイデンティティーは「狭い世界」に生まれていく。
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すごく、小さな単位であり、また僕たちが絶対的に属しているものでいえば、その狭い世界とは『家族』であると思う。
始まりのアイデンティティー、始まりの最小単位。
始めてアイデンティティーが生まれる時、始めて僕たちはこの世に誕生する。(≒親があって、始めて僕たちはこの世に生を受ける)
アイデンティティーの連鎖から、僕たちは逃れられない。
僕たちはいつまでもいつまでもアイデンティティーを探し続け、アイデンティティーから自己を見出し続け、つまりどこか、「狭い世界」を探し続ける。
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この話はこれぐらい。←ww
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「腕は2つしかない」について。
これは別に、そんなに深い話ではないけれど。(もしかして深いかも)
最近、土日にショッピングモールで食料を買っている時に感じるのは、人間ひとりが持てる量って本当に少ないな、腕が2つしかないから、2つのビニール袋しか基本的に持てなくて、また2つのビニール袋を持ってしまったらそれ以上何も持てないな、ということ。
これ、自分の中では結構衝撃的というか、ほんと、どうしようもないというか、自分一人の無力さをすごく感じる。
自分一人の約1週間分の食料を買っているだけなのに、それが結構腕2つでもう運べる量が限界って、しょぼいなと思う。
腕が足りないというか、手が足りないというか・・・。
結局人間ひとりは、「2つまで」しか出来ないんだなあというのを、切に感じたのであった。
それだけ。←ww
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