「美しさと醜さは同居する。」←ww
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1月1日金曜日。時刻は午後3時前。
以前から述べているように、僕たちの「死ぬ過程」において、「美しさ」が至上であると僕は幾度か述べている。
なので別に長生きしようが短命であろうがどうでもいいし、「美」に対してどれだけ立ち向かえるか、立ち向かえるかっていうと大げさだけど、あくまで自分内で・個人内でどれだけ自分の美しさを追い求められるか、が、死ぬ過程、つまり生きる過程においてあるとすればそれが「意味」だと僕は思っている。
その「美しさとは何か」はこれまで幾度が述べられてきて、その内容は今回は置いておいて。
その美しさとは結構「醜さ」、つまり「美しくない」ことが内包していると僕は感じている。
美しいのに、美しくない。
矛盾しているけど矛盾していない。
それはつまり、何だろう・・・、「時間的意味合い(今日美しいと思ったけれど、次の日になったらあまり美しくない。夜に書いた詩が朝起きたら我に返って全然ダメだと思う感じ)」と「他者的意味合い(自分にとっては美しいけど、他人からしたら美しくない)」と2つに分けられると思う。
「時間的意味合い」と「他者的意味合い」。
その両者に認められれば例えば作品だと「名作」になったりするし、その美しさは「永遠」なんて表現されることもある。
例えば「鬼滅の刃」。
その作品がブームの前だど、全く鬼滅の刃を知らない人はその美しさすら知らない。
しかしこうしてブームになって、色々な人が触れて、鬼滅の刃を好きになる人も大勢増える代わりにあまり面白くない(≒美しくない)という人も大勢増える。
つまり名作とは、それを貶す人も大勢いるということ。
他者的意味合いの美しさが増えれば増えるほど、その美しさを否定する人も大勢出てくる。
どちらが美しいか。
つまり、「隠れた名作」と「大傑作」、どちらが素晴らしいか。
美しさとは結局、個人個人、ひとりひとりがそれに納得すればいいのだけれど、その一方で大勢に、この世のすべての人にその美しさを理解して欲しいという想いがある。
大勢の人に触れられれば触れるほど、それが何か、自分から離れて「穢されて」いくような感覚。
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また、少し話が変わるけれど、例えば「セックス」。
恋愛とか、その関係する二人にしてみればそれはめちゃくちゃ美しいシーンだけれど、全く関係ない第3者からすればある意味「ゲテモノチック」な、それを食事時に急に眼に見せられたらとても「醜い」ものとなる。
すべての時間に、すべての人に美しいと言ってもらえるものは、美しいと言えるのだろうか。
分かりやすい感じだと「風景」とか、それに相当するだろう。
しかしそれは、何だろう・・・・、「まあまあ」でなかろうか。
めちゃくちゃ美しい光景と、恋人との1回のセックスを比べて、どちらが欲しいだろうか。←ww
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美しさとはつまり、やはり、「個人的」でなければいけない。
しかし個人的とは、他者を排除しているのであって、必ず「狭さ(≒醜さ)」をはらんでいる。
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かなり乱暴な、論調になってしまった。
僕ってだいぶ、頭の中未整理な状態だから。
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また、今日も整理の続きをやった。
細かないのちょこちょこやっていた。
これから、散歩に行こうと思う。
熱田神宮行こうかなと思っていたけど、コロナがひどいからやめようかなあと思っている。
ああ、部屋が整理されるとだいぶ心が整理されて、気持ちいいです。
それと、全然また話変わるけど、「シバター」が格闘で戦っていて、かっこいいと思った。
そんなにシバター興味はないけど、ほぼ素人?がプロに勝つって、かっこいい。
僕はやはり、肉体的強い人に憧れがあって。
今は筋トレしかしていないけど、時間があったら何か格闘技も触れて見たいなあと最近感じている。
身体を動かすのってやっぱり、人間的に一番気持ちいいことだなあとやはり感じる。
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