6月5日「人の本質(≒真実。リアル)について。エゴについて。空虚について。」

「人の本質(≒真実。リアル)について。エゴについて。空虚について。」

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6月5日土曜日。時刻は午後1時。

基本的に僕は、それに関して結構興味を持っていて、というかまあ、人の本質ってまあ、自分自身も含まれるのだから、興味を持つのは当然と言えば当然だけど、僕の場合一般的よりより興味を持っている、という感じ。

それで、人とは何か、人の本質とは何かって言うと、僕の見解だとそれは単純で、それは・・・・、人の本質とは「エゴ」だと思っている。

それは、虚無というのが人の本質のように、否定も肯定もどちらの意味も含む。

人らしさとはエゴらしさであり、結局のところみんな、自分こそすべてであり、自分こそ正義であり、自分の考えこそ「美しい」と思っている。

ここで気を付けなくてはいけないのは、それは自分内で留めておくことは勝手だけど、その価値観を人に押し付けるのは、また別の話だよね、ということ。

他人はまた、自分とは違うエゴを持っている。

なのに、自分が思うエゴを押し付けるのは、人の本質から外れるよ、的な。

人の本質とは、エゴらしいもの。

つまり、人とは自分勝手で、自分本位で、自分主体で、傲慢で、強欲で、そんな感じのものである、と。

その、エゴらしい人を一面から見て「美しい」と感じるのは自由だけれど、人の本質を「美しい」としたり「素晴らしい」とするのは完璧に間違っている、というかそれは一面からに過ぎないから、他人に押し付けるのはやめてね、的な。

だから僕は、どちらかというと、「きれいごと」を言っている人は好きになれない。

きれいごとを、自分内や、自分内のコミュニティーで留めておくことは全然構わないのだが、そのきれいごとを自分コミュニティー外にまで適用するのは、無理があるよね、的な。

人は基本的に、美しくないと僕は思う、前提的に。

美しくないけれど、美しい部分もあるよね、が正しいと思う。(汚くもあり、美しくもある)

結局僕たちは、自分しか信じることが出来ないし、自分を信じるために、他者にその自分を認めてもらおうと必死である。(自分を信じるためには社会に生きていく中では他者による自分理解が不可欠。)

美しさは基本的に、人にはない。

人らしさとは基本的に、エゴイスティックな虚無しかない。

そのエゴイスティックな虚無に、時折漏れ出る美しさはある。

だから僕はどちらかというと、「幸せ」はそれほどきれいではないと思っているし、「幸せ」を他人に押し付けるのには気持ち悪く感じる。

幸せも不幸せも含めて、美しいよね、なら、分かる。

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これと関連付けて、最近このブログで度々語っている、アーティストに対する尊敬の薄れと会社的な企業に対する心寄せについて語っていく。

単純な話で、結局ひとりの人間として僕たちは単にエゴでしかないわけ。

それは一般人も、タレント溢れるアーティストも変わらない。

だから、最近の僕の感じ方として、アーティストって単純に自分のエゴを社会にぶちまけているだけで、それを支持する人にとってはそれは心の拠り所になるかもしれないけれど、興味ない人から見れば、もしくは普通にただの人としての観点から見れば、薄ら寒いことをしているだけに過ぎない。

ただ、私を見て、とのたまっているだけに過ぎない。

それはアーティストが悪いどうこうの話ではなく、一人の人間の限界である。

一人の人間が発せられるのは一つの人間性でしかなく、その一つの人間性とはしょうもない人の本質(エゴ的、虚無的)である、と。

それじゃあ、会社とは何なのか、の話になるが。

僕の最近の考えとして、会社とは何かというと、う~ん・・・、どこから説明しよう。

エゴ的な人が集まることで、よりエゴ的な塊になるかと言われるとそれとは全く違って。

会社、つまり一側面から見ればただお金を生み出す組織である会社とは、人を離れて、それは「全く人ではないもの」、つまりまあ、ある意味「ロボット」であり「無機質なもの」であるのが僕の見解である。

だから、アーティストに対して興味が薄れて、というのはつまり、人に対して興味が薄れて、人の本質を知り、人に心寄せても、しょうもないよね、と気づき、それで何に心寄せるかというと、ロボット、つまり「無機質なもの」、という、ある意味ではすごく、残酷というか、ある意味『社会を拒絶した』ような価値観に、最近の僕はなっている。(説明下手だな。)

変な例えをすれば、ちょっとした「セックスアンドロイド」であったり「ラブドール」を愛するような感じに近いのかもしれない。(話が飛躍し過ぎ。)

「無機質なもの」。

例えば「廃墟」とか、惹かれる人は惹かれると思う。

また、天空の城ラピュタの、あのロボットとか。

人の本質を知り、人の限界を知って、何に心寄せるかというと、空洞、空っぽなもの。

エヴァンゲリオンで言うと、綾波レイに心寄せるような・・・・。

どんどん話が迷走というか、伝えたいことがこの話題はたくさんあり過ぎてつまみ食いしている感じになっているが。

会社というのも結局、確かにそれはたくさんの人が集まり群がっているものだが、その実態はしかし、ただの「空の構造」に過ぎない。

みんなが何となくあの会社に支えられて、あの会社のサービスに支えられて生きているかもしれないが、それは日本の天皇制のように、あるようでなく、いるようでいない。

会社とは空っぽなもの、それはどことなく、人からエゴを取り去った、人から人の本質を取り去った、空虚なものがより空虚になったもの、という感じが僕はしている。

だから、僕というエゴを持ってして何に興味を持つか、何に心惹かれるか心寄せるかを考えた場合、ただのエゴの発散であるアーティストに心寄せていても、彼ら彼女らはただのエゴの塊に過ぎず、それよりも、エゴを取り去った、いやもっと言うとそれこそエゴ中のエゴの塊なのかもしれないけれど、しかし空っぽである会社的なものの方が、僕の「思考材料」としては、いい暇つぶしになるなと思った感じである。

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エゴな生き物である僕はより僕がエゴ的に生きるために、乗りやすいロボットに乗り換えただけ、と言った感じである。

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