「美しさとは何かという話と、時間(数字の中の代表的存在)の怖さについて。」
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5月29日土曜日。時刻は午後6時。
ふう・・・。
良くもなく、悪くもない精神状態。(それ、さっきの日記で言ったけど)
状態としては「中庸」にある自分がいて、まあ、それをこうして書ける頭の状態にあることは幸せだなと思う。
今週の平日は、こういう書ける頭の状態ではなかったから、ふむ・・・。
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まず、時間のこわさについて書こうと思う。
以前から何度も言っている通り、僕の中での美しさランキングで1位に相当するのが数字であり、その数字の中身はお金であったり時間であったり、果ては僕たちの思考回路すら数字がベースにあると思っている。
時間のこわさについて語るよりも、先にその辺り、数字の基本というか、そこら辺を語ろうと思う。
数字って基本的に、0から9まであるものであるとされている。
それで、その中でも当たり前だけど、重要なのは「1」である。
数字の中でやはり、1が1番凄くて、1こそ数字であり、1以外は1のおまけと言ってもいいかもしれない。
数字の中で、1が最強。
1があるから、それ以外がある。(0は例外)
なので、基本的に数字と言っても、僕の場合は1と2,もしくは0と1さえあれば、まあ、十分使えるものだと思っている。
行っても「3」までで、3以降の数字はお遊びみたいなもので、まあ、あった方が便利だけど、的な感じである。
なので、1と2,もしくは1と0。
それは、「物事を2つに分ける」ことを意味している。
YESとNOを簡略に出来るのが1と2,もしくは1と0であり、基本的なすべての思考回路、Aを選ぶべきもしくはAを選ばないべきかなどの思考判断の根本はこの1と2,もしくは1と0によって行われる。
なので、一つであったものが、2つに出来る、二分できる、分断・分別・差異を生み出すことが出来たのが、数字を発明した人間の凄さであり、また人間らしさもそこにあると僕は思っている。
もう僕たちは、1つには戻れない。
確実にAというものに対して、意見は割れる。
100%のものはなく、誰かがそこに異分子を持ち込み、均衡は崩れる。
これが人である、つまり、完璧などない、常に壊れ続ける、正解を消し続けるのが人である、と僕は思っている。
そういう状態を、僕は「虚無」だなと、思っていて、それこそが「美しいな(惹かれるな)」と思っている。
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(笑)。
何の話ですか・・・・。
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それで、そんな数字なんだけど、例えばお金とかもそうだけど、現実的数字の中で、僕が一番こわい・恐れているのはやはり「時間」であると思っている。
この世の中のすべてが「時間と空間」であると以前から述べていて、またその時間と空間の空間すら、時間の具現化に過ぎなく、だから結局、この世のすべては時間ということになる。
時間。
これが一番難しいというか、「解けないもの」であり、人が「解きたいもの」であると思っている。
だから、結局表現というのは、これ関連であったり、これが絡んだり、これがその表現の本質にある場合が多い。
時間(過去・現在・未来)は究極。
これに対して、おそらく今後も、誰も分からないものだと思う。
そういう意味で、時間に対して一生永遠に振り回される僕たちは、とても「平等」だなと思う。
誰も時間から逃れられないし、唯一それが出来るとすれば「死」だから、死は生から見たら凄いなと思うし、結局死も生もしょうもないなと思う。(≒虚無的)
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美しさを語ろうと思ったけど、ここまで書いて疲れた。
簡単に言うと、永遠性であり、例えばジョジョのスティールボールランで途中描かれていたけど、「メビウスの輪」だっけ、ああいう感じのものだと思う。
なので美しさとは形で言うなれば、曲がりがあるもの、球に近いものとかであり、終わらない方向を感じさせるものであり、だから、そういう意味で、それが実体として一番近いのは男性目線から言えば「女体」であったりする。
またこうして美しさを形あるもので理解しようと話しているけれど、これは「思考的・無実体的美しさ」にも通じる話で、例えば僕たちの想い・思考の流れもまた、ストレートとか直角とか、固い感じよりも、「柔らかさ」・「柔軟なる思考」の方が美しいということ。
僕たちの頭の中の思考の流れもまた、軽やかに舞う柔らかさがあった方が、僕たちは幸せだと思うし、またその自分の想いや思考を美しいなと思うことが出来る。
そんな感じ。(たぶん、絶対、今回の文章を読んでもほぼすべての人が理解不明だと思う)
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(笑)。
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