「押見修造について。惡の華について。惡の華最終巻P48の仲村さんの表情について。」
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5月9日日曜日。時刻は午後1時。
僕は、人の人生において、勝ち負けとかは別にないと思っている。(とりあえず先進国に住んでいて、また最低限お金を持っている場合)
結局のところ、生きていて、そこそこ健康である限り、ある程度の金がある限り、「生きている」という価値観の中では、差はないと思っている。(ある程度自分の自由が欲しいのであれば、ある程度労働に制限されたりするが。その辺りは色々あるけれど。)
また、例え今がよくても、数年後数十年後、その人が幸か不幸か分からないし、ある意味僕たちは死ぬまで、そういう幸不幸戦争をし続けるから、死ぬまで誰かと比べても意味がないし、死ぬ間際に逆転される可能性があったり、またもっと言ってしまえば死んでしまえばその価値観すら消える、という感じ。
そんな、基本的に差がないこの世の中でやはり、そこに差が生まれるとすれば、自分が「残した」ものが、どれだけ他者に影響を与えるかであると思う。
それは別に、多くの人に影響を与えるほど幸不幸の話でもまたなくて、あくまで「自分にとって」の話である。
自分にとって、あの人の影響を受けているから、あの人に勝てないな、とか。
そういう、嫉妬とか負けたとかの感情は、あくまで個人的なものである。
そういう意味で、僕は今の所それほどそういう誰かに対して嫉妬とか、負けたとかほぼ思っていないのだけれど、今、唯一僕が悔しいな、自分が表現したいものを表現されているな、と感じてしまうのは、漫画家の「押見修造」さんであると思う。
ただ、そもそもの話、僕の漫画について語ると結構長くなるのだけれど、僕の人生の中で根本的なそういう漫画において思想を取られた・作られた部分はやはり手塚治虫の「火の鳥」であると思う。
ただそれは、幼少期(中学・高校)の話であり、自分の人生において手塚治虫の火の鳥が人生の根幹部分に着いているのはそうなのだけれど、今現時点、最近の、ここ数年の自分において、その性格・精神の根幹部分を表現されてしまったのは、押見修造作品であると思う。(説明下手だな、相変わらず。←ww)
特に、押見修造作品の惡の華の最終巻のP48の仲村さんの表情。
もう、このイメージこそ、今の僕の人生観そのものであり、今の自分のすべてを表現されてしまって、だから、「悔しいな」と思う。
そういう意味で、僕は押見修造にかなり嫉妬していると思う。
(と言っても何だろう・・・、僕は特に漫画を目指したことがないので、そういう意味で同じ土俵にすら立ったことがないので、嫉妬するのも失礼とも言えるが。ただ生きる人はみなすべて表現者であると言えるので、そういう意味では同じであろう。)
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基本的に僕が表現したいのは「虚無感」であり「無」である。
それが、今の所一番表現されているなと感じるのは、惡の華のそのページであり、またそこに至るまでストーリーであると思う。
日々、思い浮かぶイメージというのがある。
それで、この惡の華のワンシーンは、僕の日々過ごしている日常の中でも、すごく頻繁に思い浮かべる。
美しさ(≒惹かれるもの)というのはだから以前から述べたようにそれは同時に残酷なもので、ここ数年の僕はいつまでもこの惡の華のワンシーンを思い浮かべるということは、囚われ縛られており、それはつまり、押見修造に常に何か、負い目みたいなのを感じさせられている。(自分の心の根幹的な部分を自分ではなく他人に表現されてしまったから。本来それは自分で気づき表現したいものであると思うから。)
ここら辺、僕がアニメとかより漫画の方が惹かれる部分だと思う。
エヴァとか、それは僕にとっては時間系列的に火の鳥→エヴァ→押見修造作品なんだけど、アニメの場合、触れることを回避出来るというか、動画だから、イメージが固定されてないから、ある意味自分から遠ざけたり出来るし、また印象的なシーンが固定されてない分、僕の場合、それほど自分の心象を邪魔しない。
しかし、漫画は、かなり邪魔する(笑)。
漫画の、静止画の方が、僕の精神に残り続ける。
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なので、ここ数年の僕の日常の中で、おそらく一番日々思い浮かべる頻度が高いのが惡の華のこのシーンであり、今後どうなっていくか、見守っていきたい。
しかし、他者の作品として、これ以外はもう、無いのではないか、と思っている。
ちなみに、押見修造と僕的に近いと感じる作家として、山本直樹がいる。
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